鈴木光司さんの著書を読むのは「リング」「らせん」シリーズ以来です。といっても今回は物語ではなく、いま流行りの新書。
タイトルは「情緒から論理へ」とあまりキャッチーではありませんが、帯にぐっとひかれました。あのベストセラー、「国家の品格」に
「異議アリ!」
としているのですから。ちなみにわたくし、国家の品格をはじめ、「~の品格」といった書籍は未読です、残念ながら。
まあ色々な事例をあげて書いてあるのですが、日本人には論理性よりも情緒性が重んじられていて、議論や意思決定の中に入り込みすぎている、というもの。
ここでいう情緒性とはもっと分かりやすくいえば「空気を読む」とか「世間様に顔向けできないから、こうしよう」、「出るくいは打たれるから大人しくしとこう」といった日本特有の「配慮」全般も含みます。
実はこういった情緒性というのは、私が類推するに「日本語」という言語の特徴ではないかと。論理性という面からみると、英語は非常に優れていて、たとえば特許、論文やプレゼンテーションといった、論理を前面に押し出して相手を説得するような場合にすごく強みを発揮しますし、言語が得意なので、比較的容易にできます。
ところがこれを日本語でやろうとすると、えれー冗長になるか、日本語っぽくなくなるとか、ものすごく言語的に苦手で、難儀します。一番明確なのは、状況を説明するとき。日本ってなんでもかんでも絵とか、図とか、写真をいれたがるじゃないですか。ところが英語ってほとんどないんですよね。これは文章だけで記述することが可能だからなのです。
しかし日本語はそれが面倒で、そんなことやっていると何ページもかかっちゃうから、ええい、絵にしちゃえとなるわけです。それが端的に現れているのが、レストランのメニューだったり。アメリカのメニューは英語の文章のみ。ほんとしびれます。スペイン語圏にいって、スペイン語でかかれたメニューだともはやロシアンルーレット。必殺技は隣の人がうまそうに食べている「あれと同じものクレ」攻撃。
日本でメニューに必ず写真が入っているのは、それくらい日本語は状況を説明するのを不得意としている言語だと思います。ちなみにインスタント食品の作り方も一緒。英語圏は文章だけ、日本語は絵入り。
この本では日本軍が太平洋戦争で、論理よりも情緒を重んじてしまった結果、アホな負け戦や、気が狂ったような計画をしたことを糾弾しています。確かに指摘のとおりで、たとえば神風攻撃などがいい例ですし、戦艦大和出撃などもなにがどう考えたって無謀です。無謀といえば太平洋戦争自体全部が全部無謀だったのかもしれませんが。
その上でもっと「論理性」を重んじようというのがこの本の主張です。だから「情緒から論理へ」。
まあ理解できるのですが、私の解釈は逆です。日本人が日本人であるが故に情緒に大きく依存するのは致し方ない、いやそれが日本人ならしめている大きな一要素であると考えればそれを大事にすることが大切なのではないかと。
つまり「論理から情緒へ」。
おりしもMBA型経営の綻びがではじめた昨今、論理だけでもやっぱ足りないんでしょう。もちろん情緒だけでもだめなんですが、論理だけでもだめ。ああ難しい日本社会です。
ということで、最近うっすら考えている「日本自体が自分探しをしている」というテーマに続く予定です。
(続く?)
情緒から論理へ (ソフトバンク新書)
鈴木 光司
ちなみに私は理系なので、かなり論理を重んじるタイプです。というか硬いかなあ。