#LivingAnywhere と「北の国から」再考

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今回社会実験プロジェクト「LivingAnywhere」に息子と2名で参加。向かった先は南富良野町の廃校であったが、自分が気に入っている美瑛、そしてドラマ「北の国から」の舞台となった富良野、麓郷を訪れた。

「北の国から」を再考する

「北の国から」はすでに過去のドラマでありもう続編が作られることもないが、これは非常にエポックな作りである。

まず俳優、スタッフが不変なこと。
リアルタイムのエイジングなこと。
ロケ地はそのままリアルな舞台であること。

ドラマなのだが、とにかくほぼリアルといっていいほど、生活、いや人生に寄り添っている。

北の国からの設定をおさらいすると、奥さんと別れ、サラリーマンをやめた黒板五郎が娘と息子2人を連れて麓郷に移住することから始まる。

半年前、妻の令子(いしだあゆみ)に去られ、東京の暮らしに嫌気がさした黒板五郎(田中邦衛)は、二人の子ども、純(吉岡秀隆)と螢(中嶋朋子)をつれ、故郷の地でやり直すために晩秋の北海道・富良野に帰ってきた。 市街からさらに20キロ奥地に入った麓郷(ろくごう)という過疎村に朽ちかけた五郎の生家が残っていた。どうにか住めるように修理した家で、電気もガスも水道もない原始生活が始まった。 都会育ちの子どもたち、とくに純は、東京でガールフレンドの恵子ちゃんから聞いたロマンチックな北海道とはおよそかけはなれた厳しい現実に拒絶反応を示す...。

ストーリー | 北の国から | BSフジ

この黒板五郎は朴訥としており、人とのコミュニケーションが苦手。学歴も知識もないが、情熱と忍耐力、そして自由な発想があり、環境に寄り添った自然な暮らしを目指す。

むしろ子供達の方が都会化、既成概念に囚われた象徴として役割を演じる。

#LivingAnywhere はある部分で黒板五郎にかさなり、多くの参加者がこの子供達に相当する。都会で生まれ育ち、本当の田舎を知らないからである。

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黒板五郎の功績は様々である。とにかくDIY、材料はその辺に転がっているもの、捨てられたもの、タダなもの、廃材のリサイクルなど。そのため家は丸太、石、そして捨てられたバスなどを使っている。

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エネルギーについても自給自足を重んじる。風力による井戸汲み上げ、水力発電、牛の糞、メタンによる発電などにトライする。技術がないためどれもプリミティブな実装になっておりその実効性は疑問であるが、文化的生活を目指してることに変わりない。

人の希望を打ち砕く大自然

我々都会人は自然を知らない。緑があればそれが造園であっても「自然」というほど、自然音痴である。

黒板五郎は無農薬の畑を作って無農薬野菜を作る。この畑を作るには土壌から改良するために、5年から10年かかる。土壌を作るだけで5年である。それから作物を得て、それによる収入を得られるのはその先の話だ。

黒板五郎を信奉し、無農薬野菜にトライした地元の若者がいた。5年以上かけてついに作物がとれた矢先のことだ。害虫が発生した。無農薬だけに当然害虫が発生しやすいのは当然のことだ。そしてその害虫はその畑に止まらない。周囲の畑に飛び火し、地域全体の脅威となる。

そこで実利的な地元の兄ちゃんが、独断で殺虫剤を撒く。地域を救うために必要なことだった。

しかしこれで無農薬野菜、土壌は全滅。絶望した若者は自殺する、しかも最も嫌っていた「農薬」を飲んでだ。

若者の死後、殺虫剤を撒いた兄ちゃんはその若者の土地を買い、畑を広げたがそれに周囲から批判が集まる。しかし兄ちゃんは「買ったお金は全部借金だ、借金を返すためには稼がなきゃならない、生きるためには、大きくしなきゃならないんだよ」と捨て鉢になる。

その兄ちゃんは大きな畑を維持するために昼夜なく働き続ける。そんなある日、疲労からかトラクターの運転を誤り横転、下敷きになり死ぬ。

・・・なんだこのデストピア。

そのほか吹雪の中、畑で遭難しかかったり、トドを取りに行って流氷が流されたり、自然と生きることは生易しいことではないことを次々と繰り出してくる。地元に仕事がないから娘は札幌へと出かけ、借金を抱えた息子は清掃員のアルバイトをさらに田舎でする。

これが北海道の、富良野の現実だ。生きるとは何か、幸せとは何か、を常に突きつけてくるのが「北の国から」である。ドラマなのにドラマチックな展開は一つもない。とにかくそこにある現実、つまらない日常を喉元に突きつけてくるのだ。

田舎に夢などない。

#LivingAnywhere の鍵

しかしこれは黒板五郎であるから、ということもできる。彼には才能があった。クリティカルシンキングとアイディアで切り拓くパイオニアである。彼に足りないもの、それは資本と技術である。

STEMと呼ばれるものがこの黒板五郎のコンセプトを実効的に具現化するかもしれない。
Science, Technology, Engineering, Mathematics。そしてArts。

1980年代には通信も電話だけだった。しかし今は違う。南富良野の廃校であってもスマホは繋がり、光ファイバーによるWiFi環境も整備された。ネットを使ったビデオ会議だってでき、ミーティングからIT作業は滞らない。

地元に産業はない、仕事がないというが、このネットワーク時代であればリモートで働く環境があればどこに住んだって構わないはずだ。

黒板五郎がノートPCを使っていたら、全国的なサロンをやっていたら、ブランディングもマーケットも全国規模になっていたかもしれない。まあ彼はお金には興味ないんだけどね。

貨幣の限界とその先へ

もう一つのテーマが「お金」だ。生活にお金がいる。特に深刻なのは医療と教育である。そしてどちらも田舎は脆弱で、都市は選択肢がある。結果として都市に集中する。

都市に集中するから物価が上がり、貨幣を得るために仕事をしに都市にまた集中する。この悪循環である。経済的には好循環であったが、少子高齢化、過疎化、人口減少局面に入った多くの地方では機能しなくなっている。

黒板五郎の息子がどこかの娘を妊娠させた時、お詫びにと持っていたのは大量の「かぼちゃ」だった。普通は慰謝料ということでお金を包むのが筋なのだが、現金を持たない黒板五郎の財産はそれくらいしかなかったのである。また黒板五郎自身が若かりし頃、同じ失敗をした時に親が持っていったのが同じ「かぼちゃ」だったことにも由来する。結局材木を売ってお金を作って持っていくわけだが。

あらすじ→北の国から'92巣立ち(後半) : 高橋さんのスポーツ云々・時々芸能

そもそも貨幣とは何か。貨幣とは信頼関係のない、見ず知らずの人同士の交易で使う共通の価値であり、信頼はその貨幣を発行した国家に対してであった。コミュニティの中の信頼や依存関係においてはむしろ貨幣はなんの役にも立たない、食べられもしないし、家も立たない材料である。むしろかぼちゃや材木の方が実用的な価値を持つ。

ブロックチェーンが実用的なものとして出てきている昨今、仮想通貨が注目を浴びている。この仮想通貨が単なる一つの通貨としてしか機能しないと面白くも新しくもない。むしろこの信頼を数値化するものとして機能した時、これまで貨幣ではやりとりできなかった、数値化できなかったものまでやりとりができる可能性を見せてくれた。

奇しくもVALUが炎上したことで、既存通貨との換金において、税金や株券の問題が露わになった。証券取引上は問題なくとも、逆に税金は免れない状態になる可能性が指摘されている。

税金はどの時代でも嫌われ者だ。そして税金を取り立てる人間は軽蔑されるのは紀元前から同じだ。

税金の仕組みは吸い上げてばらまく、社会機能だ。

一方でコミュニティベースで考えると、信頼関係と依存関係が全てだ。この機能を国家スケールにしたものが社会機能で、税金というシステムのはずだが、ここに信頼関係はない。だから忌み嫌われる。


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ブロックチェーンの仕組みによって、貨幣経済や税金から解き放たれた新しい価値交換の仕組みが生まれる可能性を感じる。まさに黒板五郎のかぼちゃである。

社会実験プロジェクト #LivingAnywhere は今後も続いていく。

自分らしくを、もっと自由に。Living Anywhere

さてどんな新しい社会が生まれるのか。産業革命が都市化と工業化をもたらしたように、テクノロジーがまた我々の生活を変えていくのである。この時代に必要なのは黒板五郎の発想力なのだ。