ワーケーションと現場本場主義

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「ワーケーション」

聞きなれない言葉だが、work + vacation、旅行先や帰省先でテレワークをすることで有休休暇をとりつつ仕事を両立することだという。

日本航空(JAL)は7月から、「ワーケーション」と呼ばれる新しいテレワークのシステムを導入する。ワーケーションとは「ワーク(仕事)」と「バケーション(休暇)」を組み合わせた造語。旅行先などでの仕事を認めるものだというが、これまでのテレワークとは何が違うのか。 JALの担当者によると、これまでもJAL内ではテレワークの制度があったが、「在宅勤務」と呼ばれており、仕事をする場所は自宅や上長が認めた特定の場所などに限られていたという。

ワーケーションとは? イラスト解説 JALが7月から導入へ

政府が掲げた「働き方改革」につながるとも考えたからです。実は、厚労省が発表した労働者の意識調査によると、7割の方が「周りに迷惑をかけたくない」、「仕事をためたくない」といった理由から「有給休暇を取れない、取りたくない」と答えています。そこで、テレワークを活用し、仕事をしながら休暇などを取ることができる米国発の概念「ワーケーション」が有効だと考えました。

「働き方改革」を実現させるワーケーションという働き方 | 自治体通信Online

しかしワーケーションには疑問を呈する人もいる。労働者の休暇増を提唱する団体Take back your time.orgのJohn DeGraaf氏もその一人だ。DeGraaf氏は、「電子機器によってオフィスに鎖で繋がれた状態だと、有給休暇が完全にリラックスできるものではなくなる可能性もある」と警鐘を鳴らす。

ワーケーションで、旅してるのに出勤扱い。企業勤めもノマド化の時代です。 | 株式会社CRAZY(株式会社クレイジー) | CRAZY,Inc.

個人会社を経営している立場からいうと、この制度も会社勤め、従業員の枠から出ることができていないように思う。そもそも「働き方改革」とかいうことを中央集権の行政が残業バリバリで霞が関に官僚を縛り付けている時点で最早ちゃんちゃらおかしい。自分たちができないことを、どうして回りができようか。やってから勧めてほしいものだ。

どうしてこのようなチグハグなことが起きるかというと、原因は明治政府にある。

明治政府は江戸幕府をのっとった新政府のことで、それまでの日本文化、風習を否定、西洋文化が最良のものとして、効率化、西洋化、工業化を強力に押し進めていった。

富国強兵での富国は工業化によるもので、それまでの米作中心の経済から、炭鉱を掘り、製鉄をし、武器を作り、軍装備を強化していく。

同時に必要なのは兵隊である。

それまで士族、つまり武士がその役割であったがいかんせん250年も平和を享受し剣術を磨いていただけでは列強に対抗できない。士農工商といった職能制を廃止し、誰でも兵隊になれるように近代化を押し進める。

このときに軍事教練、兵学校というものができるわけだが、これをそのままコピーしたのが今の学校教育である。

兵学校は兵士を作るため、学校は企業戦士を作るため、という意味では似通っており、精神、肉体、知識教養にいたるまで「規格化」されて均質で大量な人材を輩出することを目的としている。だから個性なんて不要で、みな一律の横並びなのである。

工員はいわば機械である。時間労働で、その間同じことの繰り返しで成果を求められる。

8時間労働が決まったのは、工業化が行き過ぎ、労働時間が長時間化していったヨーロッパで、せめて人間的な生活をするためには、8時間睡眠、残りの時間の半分を労働、そして半分を生活にあてようということから決まったという。

また日曜日が休みなのはキリスト教の影響が大きい。

社会には政府があるが、政府が果たせない福祉の機能を宗教団体が負っていた部分があり、その引き換えに安息日が設けられる。日曜日はみんなで教会に行きましょう、ミサにでましょう。ミサが終わったらバザーである。そこでみんな買物をしつつ地域のコミュニケーションをとっていた。地域にとけこむには教会にいくのが一番の早道である。

とはいえこのコミュニケーションも大変である。作業はしていないが、時間は拘束されている。であればもう1日休日が必要だ、ということで週休2日制が導入される。

明治政府は江戸幕府をのっとり、天皇を中心とした強力な中央集権を押し進めたのはすでに述べた。この中で変化しなかったのは仕事に対するマインドである。つまり「仕事」とは「仕える事」、従業員的マインドである。

江戸時代の幕藩体制では士族は必ずどこかの藩に属することになっており、お給料をもらうことで生計を立てていた。士族、つまり軍人なんだから本来はどこかで戦争するはずだが250年も平和、天下泰平があったせいで実際の戦争はせず、ただただ奉公するだけがその職務となった。だから「仕える事」が仕事のすべてなのである。

ところが幕末になり藩の財政が苦しくなると、リストラ、つまり首になる士族があらわれた。これが俗にいう「浪人」である。浪人はもともと士族であるから武力をもっており、それが野に放たれたのであるから、治安悪化の原因ともなるし、これがひとつの明治維新への原動力ともなった。

かくして明治政府となったわけだが、西洋化を押し進めて、工業化を進めても人々のマインドはさほどかわることがない。「仕事」は相変わらず「仕える事」であり、これまで殿様に仕えていたのが、中央集権である天皇にかわっただけである。だから上のいうことをきくのは絶対であり、つねにおそばにいてお供しなければならない。

とはいえ、いわゆる民間企業のデスクワークをするサラリーマンは戦後になるまで少数派であった。これが多数派となったのは戦後復興で経済が急伸したときである。

サラリーマンは工場の工員と違い、デスクワークであるからラインがとまればおしまい、ということにならない。経済が上振れしているわけだから、やればやるほど売り上げはあがる。かくして残業が恒常化していく。

そして「上」をみて仕事をする従業員は上が帰らないのであれば、オフィスにいることがすなわち「仕事」である。なにせ仕える事が仕事であるのだから。

同じく、オフィスに行くことは大事だ。オフィスにいなければ仕える事ができないからだ。

かくして雨が降ろうと槍がふろうと、オフィスにいくことは必然である。そうして通勤ラッシュが生まれた。

こういう歴史があるだけに、いまひとつリモートワークが受け入れられないのは「上」に「仕える事」ができないからだ。つまり側にいないのに、仕事しているなんて矛盾しているというわけである。

ここにもう一つ、軍隊と企業、政府が似ている点がある。それは支配の階層構造である。

ヒエラルキーを作ることで、指令を出す人と指令を受けてそれを実行する人に分けられている。企業でいえばマネージャーである。

マネージャーは作業をしない。作業をしないからアウトプットはゼロである。にもかかわらず、部下がやったアウトプットをもって自分のアウトプットとする、いわばかすめとっているといっていいだろう。

マネージャーにとって部下のアウトプットが自分の評価になるわけだから、常に目を光らせておきたい。それがリモートワークになるとどうも塩梅がよくない、何しているかわからないし、いざアウトプットを求めるとやってなかったりするわけだから始末に負えない。そりゃそうだ、学校教育で宿題を出さないと勉強をしない、という生活をしてきたのだから、いまさら生活習慣が変わるわけがない。

だから働き方改革は、そもそもの学校教育制度を改革しないと変わるわけがない。

でこの学校教育制度は明治時代に作られたもので、地域や親から教育する権利を奪い、兵隊を作るために最適化されたものだから、変えるためには中央集権をやめ、地域や親に教育する権利を戻すことが必須なのだ。

そうすれば規格化された均質で同質ではなく、バラつきはあるものの個性豊かな人材になれる。

ただここに至るまでには一世代では難しい。現在の均質化された親や家庭ではそもそも理解できないからだ。現在の親や家庭のマインドセットを変革しつつ、次世代を育てることになるので2世代分の時間が必要となるだろう。教育の難しいところはこれだ。ゆとり教育も、ゆとり教育を受けた子供世代より、大人にもかかわらずその功罪を理解せず、ゆとり教育を導入した世代の方に問題があることは自明だ。

しかるに小手先のテレワークやリモートワークは依然中央集権的で階層的な支配構造に立脚していることはおわかりだろう。

ワーケーションもその問題は休暇、つまり基本は週休1、または2日でそれに加えて休暇をとりたいにもかかわらずとれないという課題で、それは残業したくなくてもしなきゃいけないのと同等の問題をはらんでおり、そもそも残業とは定時以降の仕事をいうことなので、じゃあ定時とはなんだという話に戻らないとその本質に迫れない。

この問題を考えるときのNGワードは「成果」「作業効率」である。

成果を定義できる作業であれば、例えば文筆業であれば何万文字をかくとか、プログラマーであれば何千行のコードをかくというのが定義可能かもしれない。ところがこれにも罠がある。

文筆業は文字制限があり、かけばかくほどいいとは限らないし、同様にプログラムも初心者が100行でかくのを、天才は10行で終わらせることができる。そうなると残業問題と同じで、できないやつがダラダラやったほうが収入が高まるというおかしなことになりかねない、というかそうなっている。

これは内燃機関の自動車を考えれば実は分かりやすく、アイドリングしていても燃料いるし、動かそうとしても燃料がいるということ。稼働している時間が進む距離=成果となるので、人間をエンジン、つまり機械化していることに相違ない。

でも実際の人間らしい作業というのはそうではない。なんでも「見える化」や「広告価値換算」みたいな1次元の物差しにあてはめようとするが、世の中そんなに簡単じゃない。見えないものが多すぎるし、そこに本当の価値があるのにだ。親子愛はかけた教育費、ではないだろう。

成果が定義できないなら、当然作業効率も計算できない。だからこうした方が効率がいい、という話にはならない。

ワーケーションでひとつ言えるのは、どこで作業をするか、である。

デスクワークは戦後の経済成長の時に人間を計算機として使うことで発達した。これも工員とは別の、ひとつの機械化である。

帰省先やバケーションでハワイにいって作業をする、ということに必然性がなければそれは帰省だし、バケーションでしかない。

作業に必要なことは、現場本場である。

つまり普段オフィス、デスクの上でネットや本などのナローバンドの情報に集約されているものをベースに作業をするが、現場本場にいくことでもっとブロードバンドの情報を得られることが最大のメリットである。

いやいや、今はインターネットの時代だから検索すればいいでしょ、という人は旅行サイトでも見て世界遺産を見た気になってなさい、ということ。そもそもバケーションを取る必要もない。家でオキュラスでも被ってればいい。

ネットで得られる情報などほんの僅かで、無味無臭で、解像度が低く、奥行きのないものである。

現場本場に実際にいき、五感をフルに活用して情報を取り入れること。それに知識経験を加味、場合によってはインターネットを活用して情報を付加してそれを消化して初めて、生きた知識・教養となる。

それが現場本場に行く価値である。そのためには、というよりそこに行くしかない。

むしろオフィスにいてできることの方が少なくなるはずだ。

コミュニケーションは大事であるし、オフィスやミーティングのもつ、コミュニティ機能はどこかで必要である。ただそれはオフィスやミーティング、会議でなければならないという法則も、もうない。

だから、現場本場にいくか、もしくは自宅でひきこもってネットで仕事をするか。そしてその合間に人と会うことが、これからのワークのありかたなのではないかと思う。就業時間とか、休暇とかもう定義はいらない。寝たいときに寝て、作業したいときにすればいい。そして人と笑い、楽しく過ごせば自然と幸せな人生になるはずだ。