終戦記念日に思う日本人の将来

8月15日から数日経ってしまいましたが、改めてモヤモヤと考えていたことを文章にすることでまとめてみます。

反戦平和

だいたいにおいて「反戦平和」を唱える人の攻撃的なことが気がかりです。戦争を反対すれば何をしてもいい、とばかりに言葉の暴力をいかんなく発揮します。文学者が巧みな言葉を使って、まさに嬲り殺しでは? と思うほどのことを言うたびに、本当の平和ってなんだろうなと考えさせられます。

ペンは剣よりも強し、と言いますが、まさに文章や言葉は剣と同じく人を傷つける暴力です。ですから使い方を誤ってはいけないし、時には刀を鞘に収めるのと同じく、無言を通すのも必要なことです。

自衛隊

憲法改正論議などで言われる、自衛隊、国防軍の定義について。「反戦平和」の方はよく「人殺しの集団」と揶揄しますが、軍隊のそもそもの目的は人殺しではないことは明らかです。戦争や戦闘の結果人が死ぬことがありますが、それはあくまでも付随することであり、もし目的が「人殺し」であればこれほどコストに見合わない人殺し機関もないでしょう。なにせ戦後70年以上、多くの人を助けたことがあっても戦闘行為で人を殺したことはありません。

その間、世界に目を向けてみれば自明で、アメリカ合衆国をはじめ、中華人民共和国、中華民国、ソビエト連邦(ロシア)など国連の常任理事国は頻繁に戦争を行い、死者を出しています。

地域分断

朝鮮半島に目を向けてみると、同じ民族同士が南北に分かれて国境線をひき分断しています。DMZがありますが、戦闘行為はまだ続いており、これが解決する見通しはまだありません。

日本においてはアメリカによる占領統治が幸いしてか、地域によって分断することはありませんでした。しかしその分地域ではないところで思想、主義主張が異なる人々が潜伏して、たまに現れます。

むしろ日本において地域の分断性というのは、しょうゆやソースの好みなど食文化において顕著です。広島にいって「広島風お好み焼き」といって殺されそうになったり、大阪人が銀だこを「こんなのたこ焼きではない」と刺したりと、非常に物騒なことになります。

同じく迂闊に大阪や広島の街を巨人軍のキャップをかぶって歩けません。広島においては隠れキリシタンのように隠して生活するほかないのです。

かような例より浮かび上がってくるのは、日本人にとって政治や思想よりも大切なのは食文化であり、野球などのスポーツということです。自民党を支持するかどうかよりも、味噌汁の味の方が家庭内においては大問題です。

日本人は負け戦が嫌い

「終戦記念日」という名前から明確ですが、「敗戦」という言葉を日本人は嫌います。実は日本人は戦争が嫌いなのではなく、みじめな敗戦が嫌いなだけです。戦争反対といって例に出されるのは常にコテンパンにやられて、「総力戦」において国民総動員、人民生活に影響を及ぼして迷惑を被った太平洋戦争であって、決して日露戦争、第一次世界大戦ではないのです。

というのもこの当時の国民の風潮は「日本は強い」「戦争はすれば勝てる」という雰囲気が醸成されており、むしろ日露戦争後に権益が得られかったことに対してメディアを含め批判的でした。

結局国民はどこまでいっても庶民感覚なので、オリンピックでもむやみにメダルを期待するし、サッカーのW杯においても実力はさておき勝ち進むことを期待。負ければ責任追及論になりすぐさま監督を降ろす風潮です。

JAL123便事故で事故調査委員会が辟易したのが、この日本人の責任追及癖で、そのためどうしても庇う力学が働き、純粋な原因究明や事故調査の障壁となりました。

太平洋戦争では結果として無条件降伏という、コテンパンになった上に権益どころか領土を奪われ、それまで朝鮮半島と台湾から輸入できていた米が途絶えたことにより、復員兵で増加する本土の食料需要とあいまって極端な食料不足に陥ります。

非常に面倒なのは、この食料不足となった戦後育ちに現在活躍している文芸、言論、思想家たちが多く、私怨と区別がつかない点です。

戦前戦後を通して「大人」だった世代に比較して、この世代は子供の論理をいかにも大人風にいうオトナコドモ的で、コドモが多い日本国民に受けるのも致し方ないです。

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「大人」というのは寡黙で多くを語りません。それだけに戦前戦後を通じ大人だった世代、現在100歳前後の方は少なくなった今、その世代の意見がさらに表に出にくいのが残念です。私が妻の祖母に戦争について話しをきいたところ、

「時代だからねえ(しょうがない)」

と総括されました。八王子空襲で私財が全部焼けたこと、戦後のドサクサで土地を奪われたこと、戦争で夫が亡くなったこと、女手一人で会社を立ち上げて、男社会に渡り合った方だけにその一言が重いです。

結局オトナコドモが反戦平和を掲げて色々いうのは、いまだに東京裁判をやっているようなもので、強者、つまり自分たちは安全な場所に身をおいて、弱者に石を投げる行為と変わりません。一方的かつ歯向かうことを許さないこの行為は「いじめ」そのものであり、日本からイジメが無くならないひとつの原因と捉えています。

イジメと報復、日本からイジメがなくならない構造 - のまのしわざ

その点で太平洋戦争の一番の痛手は日本から大人と、大人のマインドが失われたことであり、未だに成長しないままコドモ国家を続けていることでしょう。

関連ページ 石原慎太郎とブロガーが議論(3) - のまのしわざ

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この大人にならないコドモ国家を私は「学園国家」と勝手によんでますが、その結果何が起きるかというと、アニメの舞台が全部学校になっちゃうんです。しかも学校単位で戦争しちゃう。

日本において学校というシステムはあまりに強力なコミュニティであり、これを上回るシステムがないんですね。しかも大学ではなく、小学・中学・高校のシステム。

教育の問題

日本の教育は明治政府における富国強兵策に紐付いており、学制(1872年)は徴兵令(1873年)とあわせて作られています。

富国強兵 | テーマ解説 | 中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典

簡単にいうと欧米に対抗するため、知力体力をもつ兵を均質かつ大量に育成することが目的です。また兵隊にならなくとも、等質な教育程度は結果的に殖産興業といった大量生産型の工員に向いています。

例えば給食やランドセル、学生服、運動場といったものはすべて軍隊由来であり、教育と切っても切り離せない存在となっています。

現在の「富国」強兵策、アベノミクスが片手落ちなのは、それが経済のみにフォーカスしている点。「強兵」できない、しなくてよい国際情勢では、より教育に力をいれるべきです。

ところで、ゆとり教育は失敗しました。

これは行う前からグスタフ・フォス神父が指摘して、多いに批判していたものです。教育とは基本的に「詰め込み」です。とはいえ、今想像している詰め込みは受験勉強にありがちな丸暗記ですが、実際には違います。詰め込むのは今話題の「フロー状態」を作るために必要な方です。

日本においてこのフロー状態を作るのは勉学ではなく、体育で比較的行なわれています。部活が無意味に多く、長いのですが、フロー状態を作るという点では機能しています。

しかし勉学、デスクワークではそうではありません。

カリキュラムという名の下に時間分割をし、集中力をぶつ切りしていきます。これでは眠くもなるし、フローにさしかかろいうというところで、ブツ切れです。

このカリキュラムは教える側の都合、簡単にいえば教師のローテーションを軸に作られているのが問題です。さらにいえば、教育の現場で専任の教師という職業が発生したのが、この学制に端を発していることは想像できるでしょう。

つまりすべての問題は明治政府の富国強兵策に帰結するのです。

これからの未来

今後人工知能が発達し、2030年以降には1割しか就労できないと言われています。

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ベーシックインカム、つまり就労しなくても生活費を政府からあたえられる社会が必要です。

いわば遊んで暮らせる社会ですが、勉強しなくていいのでしょうか?

勉強しても就職できないわけで、働かないのなら勉強は不要ともいえます。しかしこれまでもそうですが、教養や常識が欠如していると容易に頭のいい悪い奴らにいいようにされますので、やはり詐欺を見抜くだけの教育レベルは必要でしょう。その点から考えると今以上に格差は広がるということです。

AIやロボットをもつ一部の資本家がより富を蓄え、BIだけで暮らす貧困層の2極化する世界です。

この格差を飛び越えるにはやはり明治にあったように教育しかなく、しかも均質で大量な人材ではなく、それぞれ個性豊かで、AIやロボットでは代替不可能なクリエイティブな才能を磨くしかないのです。

まとめると、子供よ勉強しろ、です。AIやロボットを開発する技術者なんか、しばらく職に困りませんよ。