小学校の卒業式

6年前の4月、子供は小学校に入学しました。

⇒ 小学校の入学式:シュタイナー教育からカトリックへ - のまのしわざ

それから6年たった3月、子供は小学校を卒業しました。

色々なことがあった(だろう)6年間。

小学1年生の東日本大震災

特にハイライトは5年前の3月11日、1年生の時に起きた東日本大震災。バス、電車通学だった1年生は国分寺駅に向かうバスを途中で下ろされ、一人駅に向かうも電車は止まっておりホームは満員で、改札からも入れない状態。駅員は非難先として近くの公園(殿ヶ谷戸庭園)を案内していたので一旦はそこへ。しかしにっちもさっちもいかないので、当時携帯電話を持ってない子供は公衆電話に並ぶも長蛇の列。半泣きでいたところを親切な人が声をかけてくれて、ようやく家に連絡がとれたそう。

その後学校に戻るよう指示し、一人バスにのって再び学校へ。

卒業式で知ったのですが、その時点まで連絡がとれなかった子供は一人だけ、そう、うちの子供。学校では先生全員が残って待機しており、ようやく午後9時になって子供が現れたとのこと。

その後午後11時くらいに渋滞の中5~6時間かけてクルマで母親が迎えにいき、無事引き渡されました。

私も連絡がほとんどつかず、ようやくついたところ上記のような状況を知らされました。学校に保護されているのなら迎えに行く必要はない、余震で道中不慮の事故があっても警察も消防も救急も対応できないから止めとけと言ったのですがいてもたってもいられない母親はもう出ちゃったと。そして学校でも(当時は)引き渡したら帰宅させる、という方針だったため、学校にはとめてもらえず、また八王子まで戻ったそうです。

その後学校の方針も変わり、生徒の携帯電話所持が解禁、学校内での避難・ステイが可能となりました。また学校にも、家にも帰宅できない途中の場所の場合、私学と連携して近くの私学へと非難、安否情報の共有するようになったそうです。

卒業式の寸劇の謎

卒業式のメインといえば卒業証書の授与なのですが、その前にある学芸会、いや演劇。

「ぼくたち」「わたしたち」「今日」「卒業します!」

「卒業します!!」(全員で合唱)

がまだあったのです! これには衝撃。私が小学生の時になにが嫌ってこの卒業式の寸劇。この寸劇のために何回も練習するんですから、時間の無駄と当時の小学生が思っていたのに、36年経ってもまだあったとは。しかもこれ。

生徒ではなく、保護者の担当分。生徒、先生はもちろん、保護者までこの寸劇の役者入りなのです。しかもやっぱり練習したのだとか、まじか、まじなのか...

あまりものことにクラクラしたのですが、よくよく考えてみました。これだけの年数なんの疑問もなく、公立、私立問わず利用されているフォーマットとなると、なにか理由があるに違いません。

そもそもこの卒業式、一体なんのフォーマットをルーツにもつのかと色々考えた結果、あるものにいきつきました。それは法事です。

卒業とは何かとサヨナラすること

この寸劇、あまりにドンヨリしていて、全然感情が入ってないんですよね。棒読みっていうか。でまあこの低いトーンの棒読み感に既視感が。それは法事です。

法事はお坊さんが南妙法蓮華経と唱えるのですが、そのお坊さんも一人で唱えたり、弟子含めて複数で唱えたり、そのトーンです。このお経のトーンそっくりだと考えると、これはもしかしたら仏教のフォーマットをもってきたのではないかと。法事というよりもお葬式でしょうか、同じ式だし。

お葬式と考えると、ある意味、合点がいきます。それはなにかに「サヨナラ」という点で共通するからです。なにに「サヨナラ」するかというと、小学生本人にとってはこれまでの学生生活とサヨナラすることになるし、親にとっては子供とのサヨナラです。

親が子供から卒業するための儀式

かわいかった子供時代。なんでも素直で、親の方に向いていた子供。しかし12歳ともなると自我が強くなり、身体の成長もより一層激しく、さらには思春期がはじります。心の成長と身体の成長が不一致するのが思春期。それまで母親になついていた子供が、

「このクソババァ、まとわりつくんじゃねえ」

と言いだす日もまじかです。いや、ほんとに。

特に母親にとってはお腹をいため、自分よりも、配偶者よりも大事にしてきた子供ですから、そんなことを言われるのはショックです、が、それが現実。まあ言葉遣いは程度問題ですが。

その点父親はもともとお腹も痛めてないし、ふと気付くと生まれて、ふと気付くと大きくなって、あれやこれやと興味をもってくれてたものが

「ふーん、別に」

とエリカ様のように反応が鈍くなってしまって、いまやミニ四駆も一人でやることになってしまったことが残念です。さらにこれまで父親が強かったものがすべて子供に逆転された今、一体何を指導すればいいというのでしょう。足の速さ、持久力、バスケ、サッカー、将棋、ラジコン、ありとあらゆる運動、頭脳も子供が勝っています。そりゃそうです、子供は成長、父親は老化する一方なのですから。そうなると当然子供はみくびりはじめます、なめはじめます。父親の威厳はどこにあるのか、どうもてばいいのか。

そんな時期に行われるのが卒業式。これは親が子供から卒業するための儀式でもあるのです。

もう子供じゃない

それまで子供というのは大人の付帯物であり、従属物だったのです。少なくとも親はそう思ってました。本来的に独立するのは成人式があるわけで、それは20歳を待たなければなりません。しかし、12歳のこの卒業式の意味合いは、子供時代との決別を意味し、親が子供への接し方を変えるひとつの転機です。

ある意味大人扱いをする、一人の人間として接することになります。実際問題、JRをはじめとする鉄道各社も中学生から大人料金です。旅の交通費も2倍です、それが大きな違いですが。

そんな冗談はともかく、意識変革が必要なのです。

その変革を寸劇で知らしめるのですから、仏教のフォーマットは凄く強いということです。なお、サレジオ小学校はカトリックの学校です、念のため。

家族であり一生の友人

卒業証書授与の後、マイクがおかれており卒業生はここで一言、親や先生、後輩たちにメッセージを残します。これも1学年1クラス22名の少人数制ならでは。例年ここで語る子がたくさんおり、そこが「泣ける」と評判のハイライトでした。

ところが今回「ありがとうございました」とまさに一言のみ、あっさりしていて父兄の間で不評。

「もっと泣かせてくれ!」

という親御さんも多かったのですが、うちの子はそこそこ語ってくれていました。

いままでこのサレジオで、楽しくあそんだり学んだりできて良かったです。

サレジオの友達は一生のもので、家族でもあるので、大切にしてください。

いままでありがとうございました

(※サレジオ=サレジオ小学校)

1学年1クラス21名、濃密な人間関係で過ごした6年間。クラス替えもなく、生徒番号も変わらず過ごした6年間。この学び舎とも今日でお別れです。そして4月からはサレジオ中学へと進学します。

同じ敷地にある中学校は男子校のため、女子は全員他の学校へ進学。男子も一部他の中学に進学することになり、全体では2/3が4月からは一緒の時間を過ごすことができなくなります。

はじめて経験する別れ、どんな思いで子供は受け止めているのでしょうか。その答えは一言メッセージの、一生の友人、家族にありました。どんなに場所や時間が離れたとしても、その心は常にそばにいるということでしょう。ここでも改めて子供の成長を感じました。

どんな中学時代を送るのか、いよいよ高校受験が待っています。お願いですから、ちゃんと勉学にも励んで、手に職をつけてほしいものです。