和田さんをリスペクトして海岸線をぐるりと回ってみた。すると思わぬ光景が広がる。
南総は一つに見えて、景色が異なるのだった。館山、白浜、鴨川。それぞれ似ており、何処も昭和ナイズされたものが目につくが、それは表層。
歴史を調べると謎が深まる。
有名な南総里見八犬伝は史実を元にしたフィクションはよいとして、その里見氏の歴史があやふやだ。
1400年頃に白浜に上陸し、戦国時代の乱世の中で実効支配している。この戦国時代は中央政府がないために、税や戸籍といった記録に乏しい。
そのためこの実効支配の様子がよく分からないのだ。
さらに混迷を極めるのが、お家騒動である。
この時に史実を書き換え、伝承されているために何が史実で創作、いや捏造なのかが分からない。その捏造された史実を元に南総里見八犬伝がさらに創作されているわけだから、もはや何が何だか。
そういう時はやはり現地を見るしかない。
地政学的に言えば三浦半島よりも南に伸びてはいるが、伊豆半島程ではない。
このためペリー来航は三浦半島の浦賀、開港したのは伊豆半島の下田と、歴史の表舞台に出てこない。
太平洋戦争では首都防衛のための軍事施設が作られ、行川アイランドはその跡地を転用したものだ。そのため地下壕での展示が多かったようだ。
この行川アイランドは日本冶金が経営していたが、いわゆるNASステンレスで有名であるが、一方で弾薬を供給している。つまり行川アイランドは弾薬庫だったということだ。
鉄道は国策であり、国鉄は旅客よりも貨物、軍事を重んじているので、なるほど、鉄道にも近い。
漁港が点在しているのは半島の特徴だ。そして集落は小さく、連絡路は脆弱である。おそらく昔は交流が少なく、あったとしても船が多かったのだろう。
一方鴨川は平野が広がり、農村地帯である。江戸時代の稲作は棚田が基本であり、平野部での稲作は実は近世になってからである。そのため大山千枚田といった棚田が今も残っている。
日蓮上人の生まれ故郷にその名もズバリ、誕生寺がある。歴史も深く、往時の趣を今もとどめており、比較的豊かな土地柄がうかがえる。
国道筋を含め、南総の道は閑散としている。
なぜなら街道がなかったからだ。房総往還はあるが、ドンつきの行き止まり。参勤交代で潤った街道筋のようにはいかない。
実家のある八代には薩摩街道が通っており、その先は短いとはいえ往時の趣を残している。内房の館山までは屈曲する海岸線の道と多少古い町並みから往時を偲ばせるものも散見されるが、大きくはない。今後検証が必要そうだ。
総合すると江戸に近いものの半島というよりもほとんど離島のような存在で、食うに困らず、天領だったり、首都防衛だったりと、歴史の表舞台に出ることもなくひっそりとしている、ある意味秘境的な趣を楽しめる場所であった。
城も石垣のない山城ばかりで、しかも保存もよくないために往時を偲ぶのはなかなか難しいが城巡りもしたい。