今回札幌、函館、青森を回る「歴史と都市化への理解を深める親子旅」に行ってきたが、非常に意義深かった。
この3都市は明治維新前後、さまざまな理由から見事に絡み合った存在だったからだ。それについてざっと振り返ってみたい。
札幌
北海道の政令指定都市として、大きく発達した札幌だが、もともとは松前藩が管理するひとつの場所だったに過ぎない。大きな転機は明治維新後、蝦夷を北海道に改称、札幌に開拓使がおかれ、西洋を模範とした札幌学校(札幌農学校、後の北海道大学)が開かれることで、政治、教育、開拓の中心地として発展した。
札幌の街は計画的に作られたため、碁盤の目状に通りが作られていることは有名。その点、京都やニューヨーク、サンフランシスコといった街並みに近い。
サンフランシスコにはケーブルカーが残っているように、札幌には路面電車があり、昭和の風情を今も残す。
函館
函館が歴史上大きく注目されるのは、ペリー提督が来航したことからはじまる。日米和親条約が結ばれ、開国したときは伊豆・下田とここ函館である。良港として有名だった函館は、貿易の拠点として発展することとなる。
一方で幕府はこのときに、奉行所を艦隊からの砲撃にさらされるのを恐れ、内陸部へ移動させた。それが函館奉行所であり、それを包囲するように濠と土塁で守ったのが、五稜郭である。
五稜郭は戦国時代の武将の居城となる城と趣を異にするのは、単なる西洋式の城郭というだけではなく、守るべきものが一国一城の主ではなく、幕府直轄の行政府(および司法)だったこともあるであろう。平城に必須の高い天守閣も高い城壁も存在せず、城としての守りは手薄であることが想像できる。加えていうならいわゆる城下町の発展もあまり見られない。なぜならこの函館奉行所は作られてたった1年で幕府が大政奉還によりその役割を終えてしまったからである。
さらに函館戦争の戦乱に巻き込まれ、大きく損傷したことから建築後わずか9年で取り壊されてしまった。
榎本武揚
函館戦争の注目の人物といえば、旧幕府勢力を率い、蝦夷共和国を作ろうとした榎本武揚である。この構想は失敗に終わり、土方歳三は戦死、政府軍との戦いに敗れた。しかし榎本武揚は政府の重鎮である薩摩藩出身の黒田清隆に才覚を見込まれ、その後明治政府で重用されることとなる。蝦夷共和国は頓挫したものの、開拓使として北海道の発展に寄与する。
その榎本武揚の才覚ぶりは半端ない。
なにせ親は伊能忠敬に仕え、一緒に地図作りに回った幕臣、本人も武士、幕臣としてオランダに留学、語学に堪能で外交もでき、郵便や電気といった技術回りに強い化学者でもあったという、スーパーマルチタレントぶりを発揮、大臣としては逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任。
青森
明治維新により数奇な発展をしたのが、ここ青森。それまで津軽と南部と別れており、それぞれ中心地は弘前と八戸であった。これを青森県として統合し、県庁所在地をどこにおくかでもめて中間をとったのが青森である。
青森のすごいところはその後の発展っぷりであるが、それは交通の要衝であったことが幸いしている。明治政府は富国強兵を進め、その中で力を入れていたのが陸上輸送手段となる鉄道網である。上野-青森間の長距離直通列車が設定されたことで、青森は東京への玄関口となったのである。
ほぼ同時期に青森-函館間の定期航路ができ、レールで貨物列車を直接搭載することが可能な青函連絡船の登場により、北海道-本州間の物流の中心地となった。その後旅客をはじめることで、人とモノの移動拠点として大きく発展することとなる。
もうひとつのキーは明治初期にもたらされた「りんご」であろう。りんごは西洋由来で寒冷な全国各地で栽培されたが、鉄道をつかって消費地となる東京に直行できることも有利に働いたに違いない。
一方で札幌、函館と異なり路面電車は走っていない。雪深い青森において、路面電車を整備するのはことさら大変だったことからだろうが、この路面電車がないことが、実は平成の時代において明暗を分けている。
コンパクトシティの失敗
物流と北海道への玄関口として栄えた青森だが、鉄道の衰退とともに、その存在感を薄めている。青函トンネルの開通による青函連絡船の廃止、自動車フェリーの発達と空路の台頭、貨物も人も青森を素通りするようになっていった。そしてトドメとなるのが北海道新幹線の開通である。
開通の日、お祝いムードだった新青森駅の乗降客がゼロだったことがニュースになったが、如実にストロー効果のあらわれだ。
マイカーの普及につれて人の移動は徒歩、鉄道から自動車に変わり、混雑する駅前は敬遠されることで駅前が衰退をしていく。これに対応するために商業施設と行政施設を混在させた大型施設AUGAをたてコンパクトシティを目指すものの、失敗したといわれている。
軽自動車の縦横無尽
北海道もそうだが、青森はそれ以上に軽自動車が多い印象だ。そしてそれを運転しているのは高齢者、女性が中心。ドライブを楽しむのではなく、まさに下駄がわりとして移動の手段として活用している。そのため運転は緩慢で、ゆっくり、いやノロノロと走行しているといっていいだろう。
軽自動車が末恐ろしいのは、アメリカが非関税障壁だと指摘するほどだが、税制的に優遇されすぎている点だ。日本のおいてマイカーをもつのはさまざまな税が課せられ、重税感が高いが軽自動車の扱いは二輪に毛が生えた程度であり、高速道路も二輪と同じ料金である。それでいて4名がのれて、屋根もついてエアコンもあるのだから、一般的な自動車と同じ快適性を与えている。
軽自動車の見た目は四輪車であるが、実際には原付がゴージャスになった二輪と考えた方がいいだろう。
青森において軽自動車がより利用されるのは、公共交通機関が貧弱であるからだ。バスや路面電車といったものは学生や、観光客にとって非常に重要な交通機関である。青森がコンパクトシティに失敗している理由のひとつに、路面電車がないことも挙げられるだろう。コンパクトシティで成功した富山ではライトレールと呼ばれる路面電車が一つのキーファクターとなっていることは有名である。
青森はその観光資源は豊富であるが、もともとの歴史ある街となる弘前、八戸からは離れている点や、さまざまな公共施設が郊外にあり、軽自動車がライフラインといってもいい。
逆に何をするにも軽自動車にのって移動することにより、駅周辺にかえって寄り付かない状況となり、また観光客も移動が不便なことから敬遠する結果となっていると思われる。
乗り換えコストの大きさ
それでは自動車が無敵かというと、そうでもない。というのも青森駅と高速道路のICは直結しておらず、フェリーに乗るにも一般道をそれなりに走る必要があるからだ。さらにフェリーは搭乗手続きが煩雑であり、また乗降の際の待ち時間も長い。
そして青森から函館は4時間と、それなりの時間がかかってしまう。例えば函館まで観光できたとしても、青森にフェリーで行こうという気にはならない、なぜなら移動で半日以上つぶれてしまうからだ。
この乗り換えの時間的コストが大きいことは新幹線にもいえる。
新青森駅、新函館北斗駅ともに、中心部から少し離れている。この少しが曲者で、実は大きな時間的ボトルネックとなる。というのも在来線での乗り継ぎになるが、そこで待ち時間が相応に発生するからだ。
結果的にどうなるかというと、羽田から飛行機で新千歳に入り、札幌・小樽を観光する方が手っ取り早く、しかも値段的に安い。いくら魅力的な観光資源があったとしても、時間の障壁は高い。
季節性に依存しない函館・札幌
青森の観光資源はねぶた祭りと、弘前のさくらまつりの2つに集中している。つまり季節性が高く、1年を通して観光客がこないというのもひとつの悩みである。
函館の観光資源は夜景と五稜郭であるが、どちらも季節性はない。いついってもあるし、見られる。また札幌もラーメンや時計台は逃げることはない。路面電車があり、夏冬通して移動の手段は誰でも確保できる。
青森でレンタカーを借りて慣れない雪道を走るのは、ドライビングテクニックを忘れた現代のドライバーには少々ハードルが高い。公共交通機関の重要性は実はここにもある。
高速フェリーの失敗
自動車による青函の移動の可能性として、高速フェリーがあった。これは4時間かかっていた青森函館間を高速フェリーを運航することで、2時間に短縮できるというものである。しかしこれは高い燃料代による高い運賃を敬遠し、貨物トラックは在来型フェリーに流れ、一方で旅客で大型の高速フェリーをいっぱいにできることもなく、最終的には2隻導入されたものの数年で頓挫、どちらも売却されて運航は終了した。
個人的には青函連絡船のように鉄路の延長に船があるような、高速道路の終端に高速フェリーをつけ、料金はETCで徴収してゲートをくぐってすぐに搭乗、短い乗降時間により大幅な時間短縮かつ、ひとときの休息として仮眠や入浴を楽しむといった運航方法があるのではないかと期待したかったのだが、現実は厳しい。
かといって青函トンネルの自動車用トンネルはコストだけではなく、排気ガスや、危険物を乗せたトラックが問題となり、現実化しない。橋梁はさらに無茶である。
このようにモビリティはつねにインフラ整備と表裏一体である。
すべては明治維新に原因がある
こうなった背景はどこにあるか。それは明治維新前後における、さまざまな要因によるものとしかいえない。明治政府は欧米に対抗するために、急激な工業化と中央集権を推し進めた。幕藩体制時にはあったローカルコミュニティの力強さと独自性、方言が今では情報と人、モノの自由な移動によって輝きが失われてしまった。
今、地方創生や一億総活躍社会を政府がうたっているが、現政府も明治政府の延長戦にしかなく、強い中央集権体制を堅持したままである。いっそのこと合衆国のように、連邦政府と州とで別れてもいいのではないかと思うが、これはこれでアメリカ人にきくと独立戦争時から変わってない体制で問題があるとのこと、つまりはold fasionだという。確かに幕藩体制のようなものなので、いまから江戸時代に戻る必要もないだろう。
都市化は人とモノの集中によりできるわけで、日本においてはその動脈を当初は鉄道が、今は自動車が役割を担っている。道路網が貧弱で、マイカーが持てない時代とは異なり、今は逆に田舎ではマイカーがないと不自由な生活を強いられる。むしろここでも二極化が進み、東京といった大都市ではマイカーが経済性にみあわず、多くの田舎ではマイカー、軽自動車がなくては生活ができないといった状況になっている。
ここに自動運転技術が入ってきて、じきに運転をしなくていい時代となる。カーシェアと自動運転の組み合わせによる公共性の高い交通機関がコンパクトシティの新しいモビリティになる可能性を秘めているといっていいのではないだろうか。
そのときマイカービジネスは崩壊、大衆車メーカーが淘汰されるのは以前指摘した通りである。
日本は広い
今回北海道・青森へいって痛感したのは、とにかく日本は広くて遠いということだ。これは距離的な問題というより、時間距離、の問題である。国土が狭いとよくいうが、面積としてはイギリスよりもドイツよりも大きいのだ。
しかし首都圏では渋滞が、郊外では貧弱な交通網、高速道路は90km/h速度リミッターがついた貨物トラックのブロッキングにより巡航速度が遅く、結果時間距離が長くなってしまう。また高速道路に冗長性がなく、事故や台風などの自然災害に弱いのも問題である。
その点やはり最強なのは新幹線である。新幹線だけが時間距離をどんどん縮めており、この点でやはり明治政府の鉄路主導による富国強兵策は今も脈々と受け継がれていると感じる。リニア計画では政府とJR、地方自治体とで意識のズレの大きさも見えてきているが、これは民営化したことで公共性よりも収益性が多少重視されているだけのことである。
本来は鉄道、道路、海運、空路をすべて統括した交通で全体設計をすることが好ましい。新幹線だけではなく、さまざまなモビリティの組み合わせでもっと時間距離を短くし、自由で気楽な移動をリーズナブルなお値段で。もっと気軽に青森、北海道にいけるようにしたいものだ。