DIALY OF OCT 1999


10月 25日(月) 晴


こんなところに

友人からの垂れ込みで知ったんだけど、J'sTipoに写真がのっていた。うーん、やる気マンマンらしい。で、1コーナーでやっちゃったわけね。写真は1コーナーに突っ込んだ後なので、フロントが鉄っちんホイール、かっこわるーい。トップタイムもとれないし、さらにかっこわるーい。

ピンチ

ちゅうことで、TOEFLだ。プラスティックの椅子や、日当たりの悪い教室。腰から下は冷え冷えしていて、お腹が痛烈にいたい。まったく問題に集中できないどころか、そのまま座っていると、サイアクの事態さえも想像してしまう。これはまずい。しかしここまで受けていて棄権も悲しい。そして1分ほど戦った後、痛みが少し和らいできた。ラッキー、これはまだもつ。上着をお腹にかけ、grammer問題を進める。

そしてgrammer問題が残り10問となったとき、、、また来た、例のやつが、きゅーっとなっ。また集中できない。問題なんてどーでもいい、とにかく、とにもかくにもa,b,c,dなんでもいからマーキングだ。

そしてまた引いて行った。grammerもクリア。そして最後のセクション、reading問題だ。これは55分の長丁場のセクション、というか結局時間的にはあと半分もあるのだ。まだまだ予断は許さない。

そして reading問題を解き始めてすぐに発作はやってきた。だんだんと事態は深刻になってくる。間隔も短い。しかしここでくじけちゃいかんっ。本来なら問題に集中させる精神を下腹部に集中させ、精一杯我慢する。そしてまたクリア。

これを繰り返してreading問題もクリアしたのだった。もー、テストが終わったことよりも、会場から解放されることがなにより、そして恥ずかしい思いをしなくて済んだことを神に感謝した。アーメン。

こんなことがあろうかと思って・・・by真田さん

そう、そんなことがあっても大丈夫なように次回、来月のTOEFLテストも申し込んであるのだ。次回は座布団もっていくぞ。


10月 24日(日) 晴


もーいや・・・

TOEFLだ。TOEFLだ。トーフルだ。うひ。ついに試験日がやってきた。ドキドキ・・・しすぎて眠れなくなり、寝たのは朝5:00、、、そして7:00起床。ジムカーナ以上に睡眠時間がすくなすぎ。試験を受ける体制じゃないよね、とても。そして自転車を飛ばし、約10分で試験場の St.Mary Schoolに着く。TOEFLでしかもニコタマだからきっと受ける人は少ないだろーとタカをくくっていたら、いるわいるわ、8:00前なのにもかかわらず数十人がすでにいる。結局どうも100人ほどはいたらしい。

学校の名前どおり、思いっきりアメリカン(?)スクール。学校の中は外国、英語しかないやんけ。緊張感が高まる。いやーな予感は的中、受付も外人、英語。そうこれより一切合財英語オンリーだったのだ。そしてTOEFLが始まる。directionもすべて英語。それがまた hearingが大変でよくわからないんだよね。実際右隣の人はまるで聞き取れないのか、何も出来ない。自分も聞き取れないので右の人の真似をしようとしてたんだけど、駄目なので早速左隣の人のやるとおりにしてみた(^^;

絶体絶命

そしてTWEのテストが始まる。TWEとは TOEFLのテストと同時に行われる、essayを書く、writingのテストだ。時間は30分。テーマは3行程度の簡単なもので、「今日、writingとreadingの能力は以前にもまして重要になっている。これはどうしてか、またはどうしてそうでないのか。実例をあげて説明せよ」という感じだ。採点は書いた内容ではなく、文章の筆記能力、つまりテーマに沿っているか、テーマに答えているか、論旨の展開の仕方、ボキャブラリーはあるか、といったことで判断される。うーん、日本語なら得意なのになあ、英語となるとまるで駄目だい。まあとはいえ、このテストの点数はTOEFLの点数には無関係なのでよしとしよう。2パラグラフほど書いたが、終わって見渡すと、2ページ目まで入っているひとが半数ほどいて、結構皆さん得意らしい。ありゃりゃ。

次は問題のTOEFLだ。listening問題。まあ、いつもどおりでわかるものはわかるし、わからないものはわからない。そうこうして次の grammer問題がはじまった、、、そこで重大問題が発生したんです!(アサヤン風)

キューン・・・ん? なんだか変だぞ。そう、おなかの急降下、、というかもうめちゃくちゃ痛い。もちろんこういう時はトイレに行きたい、しかも行かないとヤバイ感じ。しかしアメリカンな試験、トイレにいくとこは即棄権ということなのだ。ここまで苦労してテスト受けに来ているのに、一体どうすればいいんだ? どんどんとお腹は痛くなる。しかし時間は過ぎてゆく。grammerなんて試験問題を読まなければならないのに、まったく集中できない。集中しているのはお腹だけだ。目が文字をなぞるだけ、解答なんてどうーでもいい、1問平均30秒で進まなければならないため、適当に感性だけでマーキングを進める。絶対絶命のピンチ!どうなる? TOEFLは最後までクリアできるのだろうか??


10月 19日(火) 曇


寒いよ

ふと気付くとすっかり秋風ぴゅるるるる・・・ 寒いのなんのって。おかげで体調くだり気味。風邪はまだひいてないけど、危険信号がともっている。体力を温存せねば、このテスト三昧の日々をクリアできまいぞ。

直帰でラッキー

サーバーマシンをサーバールームに設置するために久々に外出。今回は事前準備がばっちりだったのと、後輩が協力してくれたおかげで、至上発、ノートラブル、たった1時間半でサーバールームを後にすることができた。時間はまだ 14:30。しかーし、これから寒いなか会社へもどるのはかったりーな、よし直帰しちゃうぞ。この空いた時間で掃除洗濯、買い物、色々できちゃうぜ。なんてラッキー・・・

祭りの挨拶・・・なわけないよな

家に戻り、 MR-Sの本を昔懐かしい三角パックのコーヒー牛乳を飲みながらよんじゃおっかなーなんてルンルンしていたら呼び鈴が鳴った。ん、いやな予感。出ると「祭りの挨拶まわり」だという。祭りかあ、そういや秋祭りのシーズンだもんね。さすが地元密着型、挨拶まわりするんだあと気を許してドアをあけてしまった。

あけるとそこにはハッピをきた威勢のいい兄ちゃんが立っているはずが、その代わりにグラサン、オールバック、派手目のシャツ、ネクタイにミッキーマウスのネクタイピン、耳にタバコをはさんだ恰幅のよいおじさんが立っていた・・・

「にいちゃん、新聞とかの勧誘で困ってないかい?」 物腰は柔らかい中に重みのある言葉で語りかけてくる。そう、どうみてもこのおじさんはあの系統の方(尊敬語)だ。RPGでいきなり中ボスにあってしまったかのような恐怖と緊張が走る。さっき、ベホイミやっておけばよかった、みたいな。色々と話かけてくるが、内容は「新聞の勧誘で困っているだろう。うちがそういうのをビシッと無料で追い返してあげるよ。地元のよしみだ。しかし一人もんはなかなか地元に貢献できないよな。町内会費とかも納められないし。そこでだ、うちはどこの新聞も扱っているんだ。普通新聞は1年や、ひでーとこだと2年契約させられるけど、うちは3ヶ月でいいぞ。3ヶ月とってくれたら、その間他の新聞屋がきてもナシつけてやるよ。」・・・とまあ、そりゃアナタは新聞拡張員なわけね。普段どおり「新聞取らないから」という戦法も、この拡張員には通用しない。相手は自ら「オレはセールスのプロ、君は断りのプロ。しかしこの勝負は君の負けだ。なぜならいいんだよ、断っても。明日もあさってもうちのわかいもんが毎日同じ話をしにくるからね。それに手間賃かかっちゃうだろう、今度は3ヶ月ってわけにはいかねえなあ。6ヶ月、1年契約だな。うちの若いもんも血気盛んだからねえ、注意はしているんだけど、俺みたいにおとなしくはねえよ」・・・

選択の余地はない

ドアを開けたのが間違いなのはわかっているが、ここをどうやって切り抜けるか。ここで帰れというのは簡単だが、すると明日からしつこく来るよと脅されているし、実際モノホンがいうわけだからやりそうだしねえ。警察来ても毎日は警察こねーだろうよといわれれば、そのとーりだし、いったいわないは証拠性が低いとまあ、相手はさすが百戦錬磨、よく法律をご存知だ。がしかーし、契約するのは非常に心外である。しかし相手もそれはよくわかっていて「にいちゃんも読まない新聞を3ヶ月もとるんだから、無駄なのはわかっているけど、これもつきあいだからな」、ってこっちはそんな付き合いする気はさらさらないんだけどねえ。「うーん、そうですねえー、えー」とかまるで故 大平首相のような、優柔不断、yesとも noともいわないだらだら戦法で、なんと約1時間も膠着状態を続けてみた。

しかし相手が完全に切れかかってくると、言葉が乱暴になり脅しがかってくる。選択の余地もないし、ここで喧嘩してプロと戦うのも勝ち目ないし、なによりそんな労力もないよなあ。仕方ない、とるか・・・

やっぱり選択の余地はない

ってことで、「日経新聞はありますか」と聞いてみた。すると日経は専門誌なので 6ヶ月が最低の契約となるらしい。しかも一般誌と違い、専門誌は継続性が高いため、6ヶ月の契約の後にも別の勧誘員が来るという。とりあえず逆らっても無駄なので、じゃあなにが契約できるのときくと 東京新聞、毎日、読売だという。そして東京、毎日は内容がシニア向けで堅いから兄ちゃんには読売がいいという。げ、一番とりたくない新聞だよ。というか、きっとこれってウワサの読売の拡張員? まあそんなことはどーでもというか、どーにもならないので結局読売新聞3ヶ月。10年ぶりに契約することになった。

洗剤4つと、ビール券5枚、そしてナンジャタウンの割引券4枚。これが景品。 で色々と話をきくと、「うちは○○企画って会社なんだけど、昔は○○会っていってね、名前がわりいってんで変えたんだ」とかいうし、もうやめてくれー(叫)

どうせ3ヶ月たったら違う拡張員がきて同じことになんだろうなあ。今度は「親だ」といわれてもあけないぞ。

こないだお会いしましたよね

してねーよ。紀伊国屋のコミックコーナーにいこうとしたら声をかけてくる女性がいる。英会話の勧誘員だ。「いえ、あってません」と答えるが、もうこれも手遅れ。「今、なにを売ろうとか、契約しようとかじゃなくって、ご紹介をさせていただいているんです」って、紹介されなくてもいいんだってばさ。人がいいのか、わるいのか、どこまでこの人はしゃべるんだろうと思いつつ、また故 大平首相のように「ふーん、えー」と曖昧な相槌を打ちながら話を聞いてみるとこれは「国連英検」から話がはじまり、結局 NCB(?)英会話教習所の無料体験レッスンの勧誘だった。結局「英会話スクールいってますけど、最近いってないですねえ」というと、「英会話スクールいったほうが、いいですよ」といわれてしまった。うん、そのとーり。

結局早い時間に帰っても、ロクなことないよなあ。というか罰があたったかな?

新聞の勧誘は、まあ警察に速度超過でつかまるようなもんだな。警察につかまるよかお金が解決できるぶん、マシとも思える。

MR-S

トヨタから MR2がモデルチェンジして、MR-Sが出た。ミッドシップオープンスポーツ。ひとことでいうと「でっかいビート」。ほんとそれ以上でもそれ以下でもないクルマだなあ。

まずデザイン。もう21世紀になろうとしているのに、20世紀デザイン。なにひとつ冒険がない上に、丸目ヘッドライトでノスタルジックな表現しているから、なんだか古臭い。同じデビューのセリカの 21世紀デザインと比較すると大違い。もちろんセリカのデザインがいいとか、悪いとかじゃなくって、セリカは明らかに先進的で、冒険的なデザインをしている。Back to the Futureに出てきてもまったくおかしくないデザイン。それに比べて、MR-Sときたら、10年前デビューしてもおかしくないデザイン。

クルマの性格付け。オープンだからサーキットじゃないだろう、とか、(MR2が)パワーを追求してもバランスが悪かったから、とか、セリカと比べてエンジンパワーがないけど、普段使わないからいいとか、とにかくイイワケが多いつくりをしている。悪くいえば手を抜いたつくり。S2000と比較するとS2000は高い理想のために必要なものを必要なだけ開発して実現したのに大して、MR-Sは 安くあげましたって感じ。これは数十年前の S600とトヨタ800との関係性と酷似しており、相似している。これがトヨタとホンダの違いなんだねえ。何十年たっても変わらないのでびっくり。

確かに200万以下で買えるオープンカー、ミッドシップカーと考えるとびっくりするほど安い。マツダロードスターより安いし、それに比べればパワーウェイトレシオで勝っている。MG-Fやバルケッタ、BMW Z3、ロータスエリーゼに比べれば間違いなく安い。しかーし、明らかに「安物」感がついてまわらないか?

S2000が 338万円で、びっくりするほど性能が高く、ポルシェボクスターなど足元に及ばないほど凄いクルマなのに、それが見た目からは感じられないのも大問題だとは思うだが、どうしてこう日本車って凄さをアピアランスに出せないのかね。と、カーグラTVでは思いっきり S2000をケナシテいたが、一理あるな。でも大丈夫。ちゃんとクルマの価値がわかる国では正当に評価されているからね。賢いユーザーは島国日本のエセジャーナリストのいうことにゃ惑わされないよん。

MR-SはきっとCR-Xデルソルのような運命をたどるような気がしてならない。サイバーCR-Xで極めたFFスポーツはインテグラタイプR,シビックタイプR に受け継がれたが、トヨタの MR2はいつ復活するんだろう。

なーんて悪口ばっかり書いてても仕方ないのでいいとこもかいとこ。まず安い。185ps シビックタイプRレースベース仕様が 168万なのに対して、なんと1.8L 140psで同じく168万円でミッドシップもどきRRが手に入る。

軽い! これはマツダロードスター、バルケッタ、MG-Fと比較しても50kgから100kgほど軽い。しかしマツダロードスターは6速ミッションだ。

前から見ても、後ろからみても区別がつかない!なんだかビートのようでいて、ボクスターにも似てなくもない。ボクスターが買えない人におすすめっ。

これがなあ、トヨタのマークじゃなくって、MGマークがついていると評価違うんだろうなあ。正当に評価されてなくって可哀相。

AE86だよ

やっぱりねえ、トヨタといえばAE86でしょう。いやKP61でもいいんだけど、FRやってほしいよね。AE86と同じディメンジョンで長さは4m以下、1.6Lエンジン、FR, 重量 900kg以下であればかなり楽しいはず。アルテッツアも何がまずいって、重いことだよね。どーせカローラはもう死に絶えたんだから、いっそのことFRに戻してコンパクトFRセダンとかやればいいのにな。

インターネット拡張員

さて、インターネットで拡張員をやるにはどうすんだろう。まずE-mailアドレスをゲットしたらダイレクトメールで「なんとかを購買してください」なんてやって、返事がこないと次の日に「無視はひどいだろう」とかメールして、最後は毎日勧誘メール送りつけるぞとか、いうのかな?うーん、そんな日も近いかも。


10月 11日(月) 晴


3連休

あー、ヒマだった、3連休。結局だらだらと過ごしてしまったようだ。とはいえ、昨日はICC、そしてきょうは会社に出ているわけだから、ヒマというほどヒマではないんだけどねえ。

It's my first time to visit ICC.

っちゅうわけで、はじめていってみましたICC。ICCってなあに? ICCとは、初台(決して西新宿じゃないぞ)にあるオペラシティタワーにある、NTT INTERCOMMUNICATION CENTER のこと。インタラクティブアートの展示を行っている。インタラクティブアートとは、テクノロジーとアートが出会い、融合した新しいメディアを創造する広範囲のインターフェース。は?何いっているかわからない? まあそれはそうでしょう、手っ取り早くいうと、中世の錬金術師みたいなものかな。できそうでできなさそうな、ありそうで、なさそうな、未来はきっとそうなるようなならないような、そんな可能性の片鱗が見られるところ。

ひさびさにクルマでばびゅーんとオペラシティまでつけ、地下駐車場へといれる。 いやいい季節になったね。それはそうと新しいビルだけあって、地下駐車場は豊富に用意されているし、スロープは銀座のようなタイトで古いところと違って2段階になって曲がっているからシャコタンカーでもOK。現在最低地上高は約80mmのヤクザなシビックでも問題なし。嬉しいねこれは。しかもわざわざ入り口に「輪止め 15cm」と明記してあるんだよね。なんて親切な! きっとフェラーリとかとめてぶつけてクレームつけたオマヌケ野郎でもいたんだろうが、気が利いていて嬉しいね。

入って早速なぜかICCではなく、オープンしたてのアートギャラリーに入ってしまった。美術館好きだし、なにより今回のテーマが「Releasing Senses:感覚の解放」。うーん、いいテーマだね。しかし内容はといえば、、、もうどーでもいいって感じ。これでいいのかなあ。唯一気に入ったのは、ゴム風船の中にゼリー状(シリコン?)と硬いものを入れた、水羊羹のようなもの。これはきっと癒しグッズとなって売り出されるに違いない。見た目も触りごこちもいいのだけど、ゴムくささには閉口した。自分の車にはタイヤを載せっぱなしだが、おなじようなゴムの揮発したにおいというか、有機物質が充満しているようだ。うげーって感じだった。

今日は常設展だけ

といわれてICCに入った。注意力が散漫なのか、それともだらだらとまわりを見る余裕がなかったのか、どうやらその日はシンポジウムをやっていたらしい。何も気にせず入り、イリノイ工科大の Mind Stormの展示やら、岩井俊雄の展示をみる。ははー、これがウワサの岩井俊雄の展示かあと感心。なんとも凄くもないんだけど、凄い。奥深くないんだけど、深い。なに言っているんだと思われるけど、深遠な可能性をうまくお手ごろにパッケージングしたそのマネジメント能力にも舌をまく。まあようはですね、作品ってのは完成させないと展示できないんだよね。感覚や感性というのは無限のもので、それを実現、具現化するためにはどこかで切り取らないといけないわけで、そこをちゃんと判断して完成した作品にしているのが偉い。だから、作品自体は単純なんだけどその表現方法や、可能性は無限に広がりを感じる。いやー、アートだ。テクノロジーだ。すげーぜ、未来は。

Future Design Symposium

上へとあがると、広いホールで外人さんがしゃべっていて、多くの観客が聴いている。ここはなんだ?と思い、プロジェクタをみると「Virtual Reality and Communication」とか書いてある。こりゃ見ないといけないとばかりにその場に立ち尽くしプレゼンを聴いてみた。英語だったのでよくわかんなかったけど、VRの権威の人が VRのこれからの可能性について語っていた。場をshareすることや、auraの距離感だーたらとかいってたような気がする。パネラーの一人が「これからは publicと privateの関係性が重要だ」とか、自分と同じ認識をもっていることをいっていた。ということで、これは常設展なんか見ている場合じゃない、このシンポジウムだろうと思い、周りを見渡すと謎のシールをみんな貼っている。ふーむ、あれを手に入れれば正々堂々と見られるわけね。そう思い受け付けへといくと予約してないともらえないし、当日は受け付けてないらしい。ちっ、そうなれば、、、とそのまま知らぬ存ぜぬで次のセッションも脇にそっとたって聞くことにした。

Sony Comupter Science Lab.

ソニーコンピュータサイエンス研究所、略して Sony CSL。ソニーであって、ソニーではない特殊なところ。まあエスパー研究所(もうない)ほどではないけどね。その Sony CSLの暦本さんが次のセッションであった。暦本さんは今までになんべんもプレゼンを見たり、聴いたり、NHKの番組でみたりしていたのだけど、ここ5年くらいの研究について説明していた。Sony CSLが凄いのか、それともこの人がやっぱり凄いのか、よくわからないけど発想と実現力は凄いと思う。 その研究の一部がVAIO PCG-C1のカメラを使った、CyberCodeになったり、PCG-XRシリーズのジョグダイアルによるSmart Label(タイムマシンデスクトップ)に応用されている。そう思うと、VAIOって他のメーカーのPCと一味違うよなあ。ふつーのメーカーはそういう最先端の研究の成果というか、未来を感じ取れるものってなかなかないからなあ。

VAIOのオリジナルアプリってそう考えるとキワモノぞろいだ。最近出たC1XEなんて CyberCodeはもちろん、謎の音楽を奏でる SonicFlow(これも暦本さんがかかわっている)やら、音声認識 Smart Commanderに加えて 3Dバーチャルマスコット(とカタログに載っている) Tiny AIBOまで、もう不必要なものばっかり満載だ。まあ最近はHDDの容量も十分だから、こんなキワモノソフトが入っていてもそんなに邪魔じゃないだろう。

それにしても、皆さんどうして Tiny AIBO気に入っちゃうんだろう。期待が大きくてもこまんだけどねえ・・・

オカズ交換メタファ

最近の暦本さんの研究が、マルチPC環境下でのインターフェース。従来ヒューマンインターフェースというのは、一人の人間と一つのPCでしか考えられていなかった。たとえばリモコンもそう。一つのリモコンと一人の人しか考えられていないため、一人の人間でたくさんの機器のたくさんのリモコンを選択して操作しなければならない。PCもそうで、マックとWindowsとUnixを同時に使おうとするとマウスが3つ、キーボードが3つ、モニターはかろうじて切り替えで一つで済むという具合だ。インターフェースも混乱するが、データも混乱する。例えば普通PC上のファイルを移動やコピーするにはドラッグ&ドロップというすばらしく簡単な操作で可能だ。しかしマックのデスクトップ上のデータをPCで見たいと思うとどうしようかと悩む。ftpかhttpか、メールか、ファイル共有フォルダか、ええい、面倒だ、URLくらいなら手でうちこんじゃる。とまあ便利なPCなのに、2台以上増えたら手間が増えるという哀しいことになってるのが現状だ。

そこで考え出された、というか自然発生的なのが、マルチなPC間でのドラッグ&ドロップインターフェース。これが実現できると別のPC上のデスクトップに自分のファイルをもっていくことが簡単だ。これをパームトップコンピュータで2人で同時に行うと、まさに「お弁当のオカズ交換メタファ」の出来上がり。「オカズ交換メタファ」は日本人にはおおうけだった。

とまあこれからはじまり、情報をput/getする単純なリモコンやら、テーブル上をPCのデスクトップと同等に扱うインターフェースなどが紹介されていて、非常に興味深かった。うん、今日ICCきて大正解。なんだろう、ふらっと思い立って来たんだけど、なんかが呼んでたのかな?

高尚なものと大衆なもの

感心する一方で感じたことの一つに、やはりこのようなシンポジウムで最先端のコンピュータサイエンスってのは非常にインテリジェントで高尚なことだということだ。来年間違ってこんなことをまじめに研究するようなところに入っちゃったら大変なことになるぞと、危機感を新たにした。しかも英語でしょ、死ぬな。そもそも勉強がキライだしね。

高尚な最先端のテクノロジの一方にローテクがある。ローテクの真髄は 携帯の着メロである。こんなの15年前の8ビットコンピュータでも実現できるしもちろん Z80ワンボードマイコンでさえも可能だった。しかし、世の中は今、それを求めているのだった。テクノロジは古くさくても最新ヒット曲さえノッケれば、ファッションになってしまうのだ。次はきっとサンプリングが来るな。間違いない。10年前X68000の ADPCMで森高千里の「だめっ」という声をサンプリングして、エラー音にしていたやつは少なくとも1000人はいるに違いない。しかもそのうちの半数は電通大の学生に間違いない。きっと「木村拓也がしゃべりかける携帯」とか出るんだよ。例えば「おい、電話かかってるよ」とか、「どうした、出ないのか?しょうがないな」とか、目覚まし機能では「おきろよ」とかいうんだよ。しかもデータはもちろんダウンロードだ。今日はキムタク、明日は竹之内豊。

ということで、自分は大衆ウケするのがいいなあ。ハイテクは大衆ウケの必要条件じゃないからね。 今熱いのは15年前から10年前にマイコンベーシックマガジンに載っていたようなアイディアのものだと真剣に思う。誰かバックナンバーを持ってないかなあ。

アレレなとこ

ついでにアレレと思うというか、ヤッパリと思ったことがある。COMMUNICATIONとかいいながら、皆が皆「人とコンピュータのコミュニケーション」を指している点。コミュニケーションてのは元来人間と人間が行うものでしょ? なのにどーして無機物のコンピュータと話し合わないといけないのさ。研究対象としては高尚なのかもしれないけど、まだまだインターフェースの域は出ないと思うし、人間と人間のコミュニケーションの形態を見極めていかないと、相応しいシステムは提供できないように思うな。つまりどういうことかというと、さきの「オカズ交換メタファ」は人のファイルと自分のファイルを交換するのに非常に適しているインターフェースだということで、それは前提として、人のファイルを自分が欲しいし、自分のファイルを人にあげたいのだ。そういう欲求がない限り、そういう必要性がない限り、そのインターフェースがあったとしても使われないものとなってしまう。

人と人のかかわりかた、前提、必要性をしっかりと規定した上で必要な技術を総動員してくみ上げるシステムってのはきっと人に受け入れられるものとなると思う。だからポスペはヒットしたんだろうね。バーチャルペットという存在でコミュニケーションを促進させるというか、共有体験を生み出した。 それをメールという既存で互換性のあるシステムの上に組み上げる。技術は添付ファイル、mimeエンコードなのにだよ。

ってことで、狙うは大衆、使うはローテク。なのになぜ、今3Dで、ネットワークで バーチャルペットなんだろ?? いってることとやってることが違うぞお。

そうだった

無限エキマニ&マフラーは非常によいです。いい音聞かせます。トルクも太ります。燃費も悪いです。それはクロスミッションのせいですが。Xカードで割引されるからいいや。

しかしタイムは変わらないのが不思議。明らかに早く感じるのになあ、フィーリングっていいかげんなもんだ。


10月 6日(木) 晴


JCO

やるな、JCO、やっぱり臨界停止処理で従業員を被爆させたか・・・

防護服もないまま、ぼーぼーと中性子が出ている臨界状態のタンクに従業員を近づけて被曝者を増加させるなんて、あまりの非道だよ。こんなこと「しろーと」の自分にも想像できるだけに、腹立たしい。だいたい原子炉と違ってまず隔壁がなく、そして臨界状態に至る原因である水を抜くことで従来タンクのなかに収まっていた中性子が外へ飛び出すことなんて想像の範囲だ。それなのに防護服がないとは。まああったとしても役に立つかは中性子の威力によるしのでいずれにしても大変に危険なことなのだ。たった3分で、自然界 70年分の被曝量。恐るべし。

ミスター・ジャパン

盛田昭夫氏が亡くなった。倒れたときから、いつかはこの日がくると思っていたが、いざ来てみるとやはりショックだ。盛田氏の功績は数数え切れないだろうが、その存在感の大きさに今もなお圧倒される。

ビデオや、特集番組などを見ると、彼の人生へのスタンスが実に明快で、聡明なことに気付く。「僕はなんでもやりたいんですよ。スキューバもはじめたし、テニスもスキーももっと上手くなりたい」。こんなことを70歳を超えてから普通いえるだろうか?まあ奇しくもそのテニスで倒れちゃったんだけど、「人生は死ぬまで勉強ですよ」と言い切るその姿勢。死ぬまで向上していこうというその気構え。とてもじゃないが、70歳の爺とは思えない。まるでまだ20代のように意欲的で、貪欲だ。

それに比べて自分はどうだ? まわりはどうだ?? 安定を求めたり、休息を求めたり、それはそれで悪くないんだろうがやはり違う。自分はそう、シンカして行きたいと思っていたんだ、それに改めて気付かされた。ご冥福をお祈りします、、、が、きっとやすやすと休まないような気がするなあ(^^)

ミレニアム

ふーん、ミレニアムって、1000年のことなのねえ。1000年といえば、1000年女王(^^; それはともかく、まあ同じ一日、同じ一年なんだろうけど来年はきりのいい 2000年。 2000年問題を抱えつつ、人類は 2000年へと進んでいくんだね。楽しく前向きにいきていこう。その前に早く寝付きたいものだ。今日も寝付けないー


10月 2日(土) 晴


臨界

東海村で放射能漏れ事故がおきたのは周知のこと。犠牲者が数十人でているし、これから先どんなことがおきるかわからないが、時間とともに忘却のかなたに葬り去られそうな気配だ。しかしこのような重要な問題を忘れていいの? というよりも、今まで触れられてなかった危険性を改めて認識する必要はないのかなあ。

「東京に原発を」

高校時代にこんな本を読んだ。多分立花 隆が書いたものだと思うのだけど(誤:立花 隆, 正:広瀬 隆 08/03/2001修正)、どうだろう。この本はタイトルだけみると「原発賛成」ともとられないが、もちろん逆の意味。原発の危険性とそこに潜む政府と企業の論理を際立たせている。要約すると、

・そんなに原発が安全であるならば、エネルギーを多く使う大都市(東京)に設置すべきだ
・放射性廃棄物問題の指摘
・代替エネルギーとしての原子力のウソ
・原子力は コストが安いというウソ
・企業論理(原子力は儲かる)

いまでもこの本を読み終えたときのことをはっきりと覚えている。本当にショックで、自失茫然となった。そしてあまりの自分の無知と、そして一般大衆がこの事実を知らないまま暮らしている現実に再び衝撃を受けた。

一番ショックだったのは、原子力で儲けようとする欲望をデータと理論的に塗り固められたウソにだまされていたことに他ならない。衝撃を受けたい方にオススメする一冊。

危険

ええ、原子力とは危険なもの。必ず安全とうそぶくが、人間の作ったもので、完璧はない。必ずメルトダウンする。実際昨今の事故の頻発はすばらしいものがある。技術は安全で、人為的ミス? であれば人に作られた技術ももちろんミスするはずだ。実際2000年問題は技術問題ではなく、プログラミングしたプログラマーの怠惰な態度で引き起こされたミスだ。だいたい自分が中学生のころBASICでプログラムを作ってたときから2000年問題に気付く位だから、気付かないプログラマはいないのに、このテイタラク。技術たあ、そんなもの。

被爆

「被爆者はなし」というが、被爆とはどれくらいの放射線を浴びれる認定されるのだろうか?ニュースでは被爆なしというが、どれくらいの被爆量なのかを指し示し、他の地域と比べるのが妥当なデータだろう。基準が曖昧すぎる。絶対隠してるよな。

問題はこれから

結局日本って国は、外国からの脅威よりも自国の持っている行政システムの不備や市民の意識レベルの低さによる脅威が大きいのではないかと思う。大地震が起きても、臨界になって放射能漏れしても、対応が遅れに遅れる。というよりも、対応できない。危機管理能力がどーたらとよくいわれるが、危機の定義がされてないのに管理できるわけがない。そこをまず指摘し、危機を定義する必要がある。

日本の危機。テポドンが発射されるよりも地震、大雨、台風のほうがよっぽど危ない。そう、日本の危機とは市民の危機意識の低さからくる。例えばキャンプ場大雨増水事故(丹沢湖)がいい例で、雨が降ろうと、サイレンがなろうと、人にいわれても移動しないために命を落とす。例えばエアコンをかけっぱなしでパチンコ店の駐車場の車の中に幼児を残し、殺してしまう。何が危ないかがわからない。何が危ないかわからないから、管理できない。普通なことだよ。

知能レベルの問題

結論から先にいおう。日本人はインテリジェンスがない、知能が低い。別にこれは諸外国に比較してでもなく、もちろん数値化されてない。しかし、ここ最近の事件をみていると低さに磨きがかかっているように思う。例えば大雨で増水。これって普通じゃない。エアコンかけても車の中の温度は上昇。これもあたりまえだよ、というのもエアコンは外部の温度と比べて相対的に温度を下げるものなのだから、外気温が上昇すれば室内温度も上昇する。これはJAF MATEにものっている。

ここでインテリジェンスとか、知能とかいう言葉でいっているのは「考えるチカラ」だ。つまりその場その場の状況を正しく把握し、考えての判断、ディシジョンをする能力のこと。 つまりその場で「こりゃ危ないな」とか感じ取れるかどうか、そして「ここまでで止めないとやばいな」と気付き、止めること。

カンなし

九州の言葉で「カンなし」というのがある。これは英語でいうときっと senselessと同義だろう。意識を失った、無感覚の、人事不省の、非常識な、無分別な、ばかげた、良識のない、無意味な、無益な・・・

秋葉原のじゃんがらラーメンでは「ザ・カンなし」という読み物があるので、是非読んでもらいたい。カンなしの意味をきっとおぼろげに感じ取れるだろう。

ということで、最近は「カンなし」な事件ばかりだ。

原因は?

やっぱり考える能力を引き出さない学校(義務)教育だと思う。そして家庭崩壊、、、というか、家庭内コミュニティの崩壊。動物として生を受けた哺乳類の人類を人間に育て上げるシステム、これが崩れている。家庭とは幼児がはじめて接するコミュニティであり、社会のモデルケースだ。ここで社会の仕組みや役割を基本的に体験、理解する。そして次に接するコミュニティが学校であり、そして学校教育を受ける。

最近は教育=学校教育だと思っているバカな親が増えたおかげで、学校も学校の先生も苦労しているらしい。教育とはそもそも親が行うものであり、親がすべて行えないからそのうち一部分を肩代わりするのが学校の役割だ。青少年(という言葉もすでに死語だが)がなにか問題が起こしたとたん、学校や先生に責任追求するマスコミもまた責任の一端を担っている。青少年が勉強できないのなら先生にも責任があろうが、ほとんどすべての原因と責任は家庭にある。というよりも、家庭が子供を守れないでどうする? 一体だれが守るのだ。子供がおかしく育つ原因は家庭に、親にある。

そして親は昔子供だった。問題のある親は問題のある家庭で育ったことが多い。と、繰り上げて考えていくとどこまで遡るか? 戦争までいってしまう。

結局戦後教育の制度や社会の仕組みの大幅な転換、高度成長期を経ることで日本にはまともな家庭を築き上げる土壌が貧弱になっていったのだ。そしてこの土壌は今後もどんどんやせ細るのは間違いない。というのも社会の基盤である政治では一切家庭のことをとりあげていないからだ。というよりも、家庭システムが崩壊の危機にさらされているという認識すらない。

さて、ここで外国と比較してみよう。同じように第二次世界大戦の敗戦国である、ドイツでは思想的に「家庭が国家を作る」という基本概念があるらしい(とドイツ人がいってた。ウルフだけど・・・)。日本にも儒教の教えがあったのにねえ。きっと戦前の人が今の女子高生とかみると、まるで外国人のように写るんだろうな。

放射能漏れよりも怖い、家庭崩壊

放射能漏れは測定可能だ。しかし、家庭崩壊は測定ができない。そして認知できないまま、被爆が進んでいくのだ。どうなるニッポン、どうなる21世紀。円周率が約3でいいのかニッポン、どうなってるんだ文部省。


 


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