マイカーの終焉は2016年にはじまる

Corolla

テクノロジーのSカーブは約50年。

破壊的イノベーションの登場により、踊り場(S字の右上)にきていたテクノロジーや産業は一気に破壊される消滅するというもので、「イノベーションのジレンマ」に詳しいです。

【Amazon】イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)

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この中の例ではブルドーザーの登場により、それまで主力だったブル(牛)がドーザー(居眠り)するようになったからというのが名前の由来。そしてこのブルドーザーも最初は蒸気機関、外燃機関だったものが内燃機関に切り替わりました。

蒸気機関でいえば汽車はディーゼル機関車、そして電化により電車にとって代わられています。

これが技術・産業の50年説です。

昨今AIや自動運転技術について考察していますが、2015年まではまだ自動運転は曖昧模糊としたものでした。ところが東京モーターショー2015ではっきりとその道筋が明確となりました。ほとんどの自動車は自律走行に切り替わるでしょう。

その理由はいくつかありますが、

・コンピュータ処理能力の向上
・AI技術の向上(上記にひもづくもの)
・センサー技術の向上(レーザー、レーダー、赤外線)
・画像認識技術の向上

ほとんどすべてはコンピュータ処理能力向上によって実用化されたといっても過言ではありませんが、それ以上にすでに現在の内燃機関やモーターといったものは一通り研究開発が終わったために、投資先がすでにこのソフトウェアの分野に投じられたという現実があります。

これは1メーカーだけの話ではなく、日本メーカーをはじめアメリカやヨーロッパもちろん、
サプライヤーを含めすべてがその方向です。ええすべてです。今後5年、10年後に出てくる車の性能向上はそのほとんどが自動運転技術です。これまでパワー、快適性、燃費ときたトレンドですが、これらはもう飽和したといっても過言ではないでしょう。

マイカーの終焉

振り返ってみるとそもそもなぜここまで自動車が普及したのでしょうか? それは高度成長期におけるマイカーブームがその役割を担っています。

それまで自動車というものは、基本的に産業用のものでした。特に戦前はトラック、輸送がほとんど大部分を占め、いわゆる乗用車は一部の高級車やハイヤー用途に限られており富豪のための乗り物です。大衆は徒歩かせいぜい自転車がいいところでした。

戦後のモータリゼーションで花開いたのは自転車に払い下げの発電機用エンジンをとってつけた原動機付自転車です。ホンダはまずこれで最初の製品を出し、その後カブを開発して大衆バイクを作り上げます。そうはいってもカブは働くバイク、つまり産業用です。

高度成長期となると人々の興味はカラーテレビ、クーラー、そしてマイカーへと注がれます。しかし自動車は高嶺の花、そこで投入されたのが大衆車です。

外車は基本的に高級車であり、スポーツカーであり、贅沢で富豪のためのものでした。それにあこがれつつ、実際に買えるのは軽自動車か大衆車だったのです。

カローラ、サニー、シビックは大衆車の代表的車種です。しかし振り返ってみましょう。サニー、シビックは消滅しました。残るはカローラのみ。この事実は何を物語っているのでしょうか。そう、これがSカーブです。大衆車の時代は終わったのです。

マイカーブームを支えた大衆車ですが、人々の興味は移ろい、売れ筋は5ドアハッチバック、いわゆるミニバンへとシフトしました。

ミニバンはこれまでの大衆車と同じようでいて、そもそもまったく違います。ミニバンの目的は、家族とその付属する装備を運ぶための人貨車です。チャイルドシート、ベビーカー、そしてオムツに遊び道具。肥大する家族の欲求を満たすための装備を満載にする必要が5ドアハッチバックを要求するのです。

行先もレジャー施設や観光、ショッピングと実利的なことを求められます。そこで重視されるのはコストパフォーマンス、いやコストの最小化だけといっていいでしょう。ハイブリッドなどのエコカーはこの風潮にあったものです。

ミニバンは移動と運搬の手段であり、その移動自体を楽しむ、つまりドライブや運転を楽しむというものには向きません。やはり人貨車、自家用貨物なのです。

大衆車だってそうじゃないか、という指摘もあるでしょうが、大衆車が自家用貨物と大きく違うのは憧れです。大衆車は外国の高級車やスポーツカーに対する憧れ、羨望がありました。その羨望を現実化するための妥協が国産車だったのです。そのため大衆車であってもデザインやパフォーマンス、はやくいえばパワーが重要でした。

運転は苦痛であり、無駄である

現在の自動運転技術を主導するのはシリコンバレーを擁するアメリカです。グーグルをはじめ、テスラといった企業の裏には、スタンフォードやMITといったコンピュータソフトウェア工学の権威が控えています。先日トヨタが巨大投資したのも、このコンピュータ産業の人材であり、1円もエンジンなど機械工学といったところは含まれません。もはや自動車は移動するコンピュータなのです。

このアメリカの、アメリカ人の考え方は「運転は退屈、苦痛、無駄」というものです。

巨大なアメリカ大陸を横断する、というユースケースはヨーロッパはもちろん、日本でもありえないものです。しかしアメリカ人は時にそうするし、このユースケースを必ずクリアしなければならないと考えています。そこで問題となるのは、うそではなく本当に運転は退屈で苦痛、時間の無駄という点です。

オーディオブックがアメリカで流行しているのはそのためで、この運転中の無駄な時間を読書にあてよう、という要求から生まれています。

古くはワイヤー式のアクセルワイヤーをひっぱるだけのオートクルーズを装備していましたが、自動運転技術はその現代版。本気で手放し運転、いや運転しなくて済むようにしたいと彼らは考えています。

一方ヨーロッパは少し趣が違います。

彼らは運転は楽しみ、レジャーだととらえている節があります。なにせバカンスのお国柄ですから、人生を楽しみたいという要求が強いのでしょう。ですから自動運転技術はあくまでも安全を補強するための手段として発達させています。運転手が運転を誤ったときや、突発的な病気や居眠りといったヒューマンエラーをリカバリするための運転支援システムとしてです。

これにはヨーロッパ的階級社会、主従関係も強く関係しています。つまり人間が主であり、自動車はあくまでも従なのです。ドライバーが運転の奴隷になる、ということはあってはならないし、控えめな執事のように、自動車はでしゃばらずに隠れて主人の力になることが理想だからです。

翻って日本です。

日本でミニバンが普及したとき、ドライバーは奴隷です。ここでいうドライバーはほとんどの場合夫ですね、ウィークデイはブラック企業で残業でへとへとになり、土日はブラック家庭で奥さん子供の奴隷となり、あっちにいけ、こっちに連れてけ、駐車場が混雑したら家族を先におろして自分だけ駐車場待ちをするのです。

これはハイヤーやタクシー、バス・トラックの運転手のすることです。もはや家庭内プロドライバーといっても過言ではありません。いや、お金をもらってないので隷属、奴隷化しているということです。もっともそういうのが大好きなマゾな人も多いでしょうし、忍耐は美徳とする日本人気質にあっているのかもしれません。ブラック企業にブラック家庭、それがミニバンを繁殖させました。

本来、ヨーロッパ的階級社会であればドライバーは自動車の中で王様であり、絶対君主制であるべきなのです。なぜなら安全を確保する責任を負うからです。その代わりに手にできるのがどこにでもいける「自由」。あっちにいけ、こっちにいけ、と言われていくのは自由でもなんでもなく、単なる仕事です。

主にアメリカが主導し、苦痛な運転を機械がやってくれることになってきました。これにより隷属したドライバー、主に夫は運転から解放されます。やったー!・・・ってそれでいいのでしょうか?

アメリカ的な「運転は退屈・苦痛・時間の無駄」という考え方を解決するための自律走行(ここでは発展途上の運転支援システムときちんと区別するためにドライバー不要の完全自動運転を「自律走行」と呼ぶことにします)。この自律走行がやってきたとき、ミニバンはすべてこれに置き換わります。というのもミニバンではドライバーがブラック家庭に隷属し、まさにアメリカ的な「運転は退屈・苦痛・時間の無駄」だから、こういったユーザーは自律走行車へ飛びつくはずです。

そうすると何が起きるか。これって単なる無人タクシーなのですね。

タクシーを買う大衆はいませんよね。必要なときに呼べばいいのがタクシーのいいところであり、この瞬間にある産業が崩壊します。

それが大衆車メーカーです。

実は日本の自動車メーカーは基本的にすべて、大衆車メーカーです。乱暴にいうと、売り上げ/販売台数=平均販売価格 で割り出した値段で買える車が大衆車なら大衆車メーカー、高級車なら高級車メーカーです。日産なら平均200万円、ポルシェなら平均1200万円といえばわかりやすいでしょうか。

大衆車メーカーは大衆にマイカーを売ることが商売だったわけですが、移動・運搬が目的となったミニバンユーザーに今後自律走行の流れではマイカーを持つはずがありません。カーシェアの流れはそれを証明しています。

マイカーとは、大衆車とは本来外国の高級車やスポーツカーにあこがれたけど高嶺の花で買えなかったからお手頃な国産車にした、というものだからです。

そしてこの高級車やスポーツカーは主にヨーロッパメーカーで、彼らはヨーロッパ的階級社会を反映し、ドライバーが主、絶対君主制における運転する楽しみを提供してくれます。大衆車も少なからずそれがあったので大衆はそれに狂喜乱舞したのです。

大衆車の代表車種、カローラ、サニー、シビックのうち、サニーはずいぶん前に、シビックは日本市場で姿を消しました。今でも残っているのはカローラのみ。


「マイカー」はあっても「マイ電車」は存在しない理由

日本の幼児は幼いころに2つの派閥に分かれます。ひとつは自動車派、もうひとつは電車派。つまりトミカか、プラレールか、です。これだけ電車がすきになっても、電車は「マイ電車」は存在しません。

あれだけ電車でGO!がゲームセンターで流行ったのに、誰も本当の電車を所有して、実際にやったという話は聞きません。

船だって漁船やフェリーだけではなく、マイボート、マイヨットがあるし、飛行機だって旅客機だけではなく、自家用ジェットがあるのに不思議ではありませんか? どっかの貴族や富豪であれば「マイ電車」や「マイ新幹線」をもっていてもおかしくないでしょう?

でも電車はないのです。それはなぜか?

移動の自由がないからです。レールに制約され、そして目的は移動そのものだから、生まれながらにしてシェアモデルなのです。


自律走行自動車は、レールがないだけの電車です。移動を目的とし、シェアが効率的・コストパフォーマンスを最大化できます。移動の自由はありそうですが、それもせいぜい電車よりもバスよりもちょっと自由、という程度です。

生き残る自動車はスポーツカーのみ


自動車のうちマイカーが生き残るのは、所有することが目的となる趣味性の強い車種のみでしょう。また運転そのものが楽しい、というもの。

スキーがそれに近いです。スキーは移動の手段ではありません。ゲレンデの中を上から下に下るだけで、移動はしていますが、目的地というものは存在しません。移動そのものが目的だからです。

スキーで必要になるのはスキー板で、これもレンタルがあります。ただレンタルは数回利用するのはリーズナブルですが、毎週いくとなると割高で、自分好みの味付けにしたり、デザインしたりできないので、最終的にはマイ板を所有したくなります。

これこそが生き残る自動車の条件です。この条件にまっさきに当てはまるのがスポーツカーです。むしろ運転することが目的となりうるスポーツカー以外は「マイカー」として生き残るのは難しいです。今人気のSUVにしたって、スポーツしにいくのが目的、なのでマイカーになる必然性が弱いのです。

こうなってくると、大衆車メーカーはうかうかしていられません。自律走行を現実化する開発は進んでいますが、マイカービジネスが崩壊するのはこれとセットなのです。トヨタはUberに出資したのは Uberで使う自動車をトヨタ製にしようという狙いであり、さすがは自動織機から自動車と技術のSカーブをうまく切り抜けた会社と、うならせられます。

今トヨタがスポーツカーに力を入れているのは、そこも見越しているからでしょうか。


トヨタ・カローラが市場に登場したのは今から50年前の1966年のこと。そう、今年はカローラが登場してからちょうど50年の2016年なのです。これから先、マイカービジネスが崩れていくのは必至です。