日本の三大萌え文化が集まるワンダーランド・追浜

三大萌え文化とは、工場、廃墟、軍事です。

日産リーフの試乗の会場となったのは、日産・追浜工場にあるGRANDRIVEという場所。

このGRANDRIVEへの道すがら田浦~追浜を走ってみたのですが、色々惹かれるものがたくさん。まず廃墟・建造物系。

道を走っているとレンガ風のトンネルがたくさん。中は補修工事されていて一見新しいですが、レンガから古いものと分かります。

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2枚目の写真の右側(官修墓地へ登っていく階段の上)の市営住宅が建っている場所は、かつて海軍の実験水槽の跡がありました。
底の深~いプールのようなものです。

左側には海軍の施設があったようです。

この近辺一帯には防空壕(地下トンネル?)が縦横にはりめぐらされていて、子供の頃には「入るな」と言われていました。

旧日本軍の設備は元々機密が多くて謎が多いですね。

そんな中に謎の建物が。一体何の目的のものだったのでしょう。

そしてGRANDRIVEそのものが軍事遺産。

ダットさん クルマノエホン livres d'images de voitures

また、追浜は日産自動車追浜工場と総合研究所が存在する日産の拠点の一つ。ダットさんの設定にはもってこいの場所だ。ついでにトリビアな話をすれば、この日産の敷地は、戦前海軍航空隊が設置されていた場所で、海軍航空技術廠(今で言う空軍技術研究所)が開設された地でもある。日本初のロケット機「秋水」の飛行実験はこの海軍航空隊の飛行場で行われたのだが、昨年「轟」の項で紹介した日産のテストコース「グランドライブ」はこの跡地である[2][3]。

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海軍航空隊と追浜 ~旧海軍航空隊飛行場~

所在地:横須賀市夏島町

京浜急行追浜駅から伸びる道路を海岸方面に向かうと、その先には日産自動車株式会社追浜工場があり、広大な面積を擁する同社のテストコースがある。ここでは日々、ハイテクを駆使した最新車の実験走行が繰り返し行われ、なかなか部外者が立ち入ることのできない場所である。
そのコースの中央、走行レーンとは無関係な位置と方向に、直線状のコンクリートが心細く、そして何かを主張するかのように力強く延びている。周囲に馴染まず、違和感のある風化したコンクリート。これこそかつての海軍航空隊飛行場の滑走路の一部である。

海軍の本格的な航空機研究は陸軍より早く、横須賀鎮守府に航空術研究会が置かれたことに始まる。このため明治45(1912)年10月、北部追浜の海岸沿いに東西200m、南北600mの飛行場が開設された。追浜はまさに「海軍航空発祥の地」であった。海軍航空隊設置によって追浜の地は一変した。夏島や浦郷の地及び海岸一帯は埋立てされ、トンネルが開削され、周辺には格納庫・兵舎が建築され急速に賑わいを見せた。さらに昭和7(1932)年の海軍航空廠(のち海軍航空技術廠・第一技術廠)の設置は追浜を大きく変貌させた。最先端技術が集結した航空機研究の実験施設と実戦施設を伴う「海軍航空技術のメッカ」となるとともに、北部地区の工業地化が進行、空技廠だけで34000人(昭和19年当時)もの職員・工員・技術者、さらに飛行場関係者も合わせると膨大な従業員を抱え、地区人口は急激に増加した。
航空機の急激な需要に伴い滑走路延長や周辺の埋立はその後も継続したが、この飛行場からは実に多くの航空機が飛び立っていった。なかでも戦争末期、日本初のジェットエンジン「ネ―20」を開発・搭載した「橘花」、ロケットエンジンの「秋水」などが、この飛行場で試験飛行を行った。テストパイロットの殉職も多かったが、日本の復興、高度経済成長を牽引する多くの優秀な技術そして技術者が育っていったことは忘れてはならない。

飛行場を含む一帯は戦後、米国海兵隊航空基地(Marine Corps Air Base 31)となり、朝鮮戦争時にはアメリカから輸送された兵器、軍用自動車で埋め尽くされた。しかし軍転法により民間企業に払い下げられた結果、日産自動車株式会社の所有となり現在に至っている。


以前の姿はこんな感じでしょうか。

おっぱまタウン|おっぱまの歴史 -おっぱま写真館- 終戦直後の飛行場

昭和20年。終戦から11日目に米偵察機により撮影された追浜飛行場。広大な飛行場には一式陸攻、零式輸送機、彗星、天山などが並んでおり、右手は陸上機格納庫などの建物です。

そして周辺道路をフラフラしていたらこんな奇妙な建物が。

DSC_7859

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明らかに古そう。調べてみると、こちらは第三海堡の構造物遺産。

私たちの取り組み -東京湾第三海堡-|アクションおっぱま

第三海堡の保存・公開

東京湾第三海堡とは、東京を防護するため東京湾口に設けられた砲台を設置するための人工島です。明治25(1892)年の着工以来、当時の土木・建設技術を結集して30年間に及ぶ難工事の末、大正10(1921)年に、竣工しました。しかしながら、わずか2年後の関東大震災によって崩壊し、海中に没してしまいました。関東大震災で大破した第三海堡は、その後も波浪により崩壊が進み、半ば暗礁化してしまいました。第三海堡は浦賀水道航路に接しているため、付近の水域では海難事故が多発するようになり、航路の安全を確保するため、第三海堡を撤去し水深23mを確保する工事が始まりました。

撤去工事は平成12年(2000)から平成19年(2007)に亘って実施されました。その間、撤去構造物の内、大兵舎と呼ばれる構造物はうみかぜ公園に移設され、探照灯、砲台砲側庫、地下通路、観測所と呼ばれる4つの構造物が、追浜展示施設(民有地)に保存・展示されていました。

しかし、撤去工事終了後の展示施設の維持が難しくなったということで、移設場所がなければ、この貴重な遺産が廃棄されるとの話が伝わり、ぜひ追浜地区内に残したいとの声が起こりました。 しかし、いずれもかなりの重量物で陸上輸送が出来ず、海上輸送でクレーンのアームが届く範囲にしか移送できないなど、困難な条件がさまざまありました。

関係者の努力によって国(国土交通省)と横須賀市の協議が整い、夏島都市緑地内に移設され、保存・公開されることとなりました。(移設は探照灯、観測所、砲台砲側庫。地下通路は運搬に絶えられないとして移設されません)

1921年竣工、2年後に大破。その後波浪により崩壊、暗礁化したものを2000年代に撤去。その歴史的構造物が移設されたものです。

▼第三海堡大型構造物展示場(2004年)写真⇒ ♪ かいほう~かいほう~かいほう!第三海堡!

他にも貝塚があったり。

明治憲法草案の碑があったり。

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おっぱまタウン|おっぱまの歴史 -おっぱま写真館- 明治憲法草案碑復興

昭和26年。旧航空隊内にあった記念碑は、戦後荒れるにまかせていましたが、昭和25年に復興委員会が組織され、旧碑のうえに「明治憲法草案起草の碑」と刻んだ碑を建て完成させました。工場建設のため、昭和50年に北側へ200メートルの現在地に移設されました。

JAMSTEC(海洋研究開発機構)があったり。

JAMSTEC | 独立行政法人海洋研究開発機構 | ジャムステック

jamstecなう

いかつい研究船がえらいかっこいい!

当然ですが日産をはじめ、あたり一帯工場だらけ。しかもどこも入れない、敷居が高くてヒミツっぽいところがステキ。なにこのワンダーランド!

追浜がある横須賀といえば、山口百恵、横須賀ストーリー。

PVもめちゃくちゃイカしてます。

ということですっかり横須賀、追浜に魅了されてしまいました。次回はもっと色々と調査、フィールドワークしたいですね。

【関連リンク】

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♪ かいほう~かいほう~かいほう!第三海堡!(写真)