金婚・豊島屋酒造の酒蔵見学:創業慶長元年のサステナビリティとチャレンジ

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ネタフルさんから「のまさん、日本酒興味ありますか?」と突然言われたのが先月のこと。米好きで、その米からつくる日本酒が嫌いなはずがないのですが、いかんせん20代に何度も酷い二日酔いにあってからここ15年ほど飲んでおらず。日本酒の酒蔵見学と言われても最初ピンとこなかったのですが、行って見るとこれまた実に深遠なる世界が広がっていたのでした。

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今回案内していただいたのは、東村山にある豊島屋酒造さん。1596年創業、豊島屋本店の酒造部門ということでその長い歴史はまさに驚きです。だって400年以上ですよ、江戸時代がはじまる前からなんですからまさに気が遠くなるほど。

そしてこの江戸と切っては切れない関係だからこそ、現在に至っているともいえます。

江戸城 - Wikipedia

1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に開城。秀吉に後北条氏旧領の関八州を与えられて、駿府(静岡)から転居した権大納言である徳川家康が、同年8月1日(1590年8月30日)に公式に入城し、居城とした。(中略)

徳川家康が入城した当初は、質素な城だった。太田道灌築城時のままの姿を残した比較的小規模な城であったため、徳川家は開幕までにそれまでの本丸(元は二つの郭であったが入城後、間の堀を埋めて一つの郭にする)・二の丸に加え、西の丸・三の丸・吹上・北の丸を増築。また道三掘や平川の江戸前島中央部への移設、それに伴う残土により、現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、同時に街造りも行っている。

このブログでもさんざんとりあげている、江戸城。もともと三河出身であった徳川家康が江戸に入り、その後風水都市に魔改造。まさに関東改造計画ともいえるほどの、大規模開発で活況を呈した江戸にこの豊島屋さんが誕生するのです。

歴史 豊島屋本店

時は江戸、慶長年間(1596~)と言えば、太閤秀吉の晩年にあたり、徳川家康が江戸に入り、江戸城も大改修の時期を迎えていました。

その城の外濠、北岸は江戸湾から隅田川、日本橋川と入って、石垣の石材などを陸揚げする鎌倉河岸(「江戸切絵図」では竜閑橋と神田橋の間、鎌倉町。現在の千代田区内神田二丁目)で、初代豊島屋十右衛門(としまやじゅうえもん)がお城の普請で集まった多くの武士、職人、商人達をお客様に、酒屋、及び飲み屋を始めたのが、豊島屋のおこりです。

当時は、まだ、関東ではよい酒を製造する技術がなかったため、“下り酒”と呼ばれる、関西から船で運ばれてくる酒が一般的でした。そこで、“酒屋、及び安くて旨い酒を提供する店”を開き、酒の肴として、美味で、特別大きな田楽を販売して大評判となり、大いに繁盛したのです。

豊島屋さんは「居酒屋」の元祖といわれており、安くお酒とおつまみを提供したので繁盛したそうです。ほとんど儲けナシでお酒と田楽を出したのでお客がワンサカと押し寄せたそうですが、では一体何で儲かったかというと。

歴史 豊島屋本店

「山なれば富士、白酒なれば豊島屋」と詠われるほど、豊島屋の「白酒」は江戸の名物となりました。

初春(2月)の白酒の売り出し日は、1,400樽という膨大な量を、売り上げたと伝えられています。

お酒を飲めば余るのが、空樽。この空樽を売って儲けたというのです。空樽は次の酒造りに使われたり、漬物を作ったり、庶民の生活の必需品としても重宝されたようです。酒では儲けず、空樽で儲けるという手法はある意味、

江戸時代のフリーミアム

といったところ。先進的なビジネスモデルで活況を呈したのもうなづけます。

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さて酒造です。米から日本酒を造るにはいくつかの工程がありますが、簡単にいえば米を蒸す、麹で糖化する、酵母で発酵させる、搾り、濾過。すべての工程がそれぞれ大事なのですが、はやり主役は米であり、酵母であり。

日本酒 - Wikipedia

近代以前は、麹と水を合わせる過程において空気中に自然に存在する酵母を取り込んだり、酒蔵に棲みついた「家つき酵母」もしくは「蔵つき酵母」に頼っていた。その時々の運任せで、科学的再現性に欠けており、醸造される酒は品質が安定しなかった。

明治時代になると微生物学の導入によって有用な菌株の分離と養育が行われ、それが配布されることによって品質の安定と向上が図られた。 1911年(明治44年)第1回全国新酒鑑評会が開かれると、日本醸造協会が全国レベルで有用な酵母を収集するようになり、鑑評会で1位となるなどして客観的に優秀と評価された酵母を採取し、純粋培養して頒布した。こうして頒布された酵母には、日本醸造協会にちなんで「協会n号」(nには番号が入る)という名がつけられた。このような酵母を協会系酵母、または協会酵母という。アルコール発酵時に二酸化炭素の泡を出す泡あり酵母と、出さない泡なし酵母に大別される。

なんでも蔵つき酵母に頼っていた時代はどんなに頑張ってもいい蔵でなければいい酒ができないという状況だったそう。

これが明治時代になると西洋科学を導入したというのですが、この酵母を研究開発したのが大蔵省直下の国立醸造試験所。

清酒酵母 - Wikipedia

1893年には日本人の醸造学者矢部規矩治(やべ・きくじ)博士によって、日本酒の醪(もろみ)から清酒酵母が分離され、1895年には国際学会でそれがSaccharomyces sakeとして発表された。また明治37年(1904年)には大蔵省の管轄下に国立醸造試験所が設立された。これが現在の独立行政法人酒類総合研究所となる。

どうして醸造学が大蔵省直下なの?

非常に簡単で酒はそのまま租税、つまりは国の税収に直結しているためです。江戸時代から明治時代の変遷の中で、大きく移り変わった部分ともいえます。

江戸時代の租税の基本は年貢、米の物納です。ところが明治時代では租税は税金、貨幣がそれをとって変えます。

2 国税の第1位へ|租税史料特別展示|税務大学校|国税庁

明治29年(1896)10月に酒造税法が制定されました。この後、日清戦争後の軍備拡張と官営企業への財政支出が増大し、間接税を中心に増税が行われました。これに伴い、酒税は明治29年~34年までの5年間で3回増税が行われ、明治32年には酒税の国税に占める割合が35.5%となり、それまで国税の税収のトップであった地租を抜いて国税の税収第1位となりました。その後、同37年に地租に逆転されましたが、同42年から再び国税の税収の第1位になりました(大正7年(1918)に所得税に抜かれるまで)。

酒税の税収がトップとは、恐るべし明治政府です。

明治の酒税|租税史料特別展示|税務大学校|国税庁

 その一方で、酒造業者は酒造組合を結成し、組合内の業者間の調整及び酒の品質向上に努めました。明治32年には、酒造組合規則が制定され、酒造組合は税務署と協調しながら酒造業界の発展に貢献しました。この後、明治37年には、大蔵省に現在の独立行政法人酒類総合研究所の前身である醸造試験場が創設されました。

 当時の酒税の背景には、税制の変遷とともにこうした税務行政及び酒造業者の動向もあったのです。

すなわち大蔵省が税収を確保するためにも、品質の高い酒の生産は急務だったことが容易に想像がつきます。

平成の世の中になると、さらに多様化する嗜好に合わせて色々な試みがされ、色々な添加物で香りをつけてみたり、なんとかやってみたりというのが品評会で高く評価された時代もあったようです。そんな中でも一貫して豊島屋酒造さんではシンプルに材料と作り方で工夫して、伝統と文化を守り続けています。

株式会社豊島屋本店様 /日立情報システムズ

豊島屋様の江戸の心は、「不易流行」という会社方針にも反映されている。経営の上では、「品質」、「信頼」、「信用」のように時代が変わっても変えてはいけないもの、「商品」「商品パッケージ」「チャネル(販路)」のように時代とともに変えるべきものがある。これらを見極めることが、地に足のついた経営に繋がっている。

「経営者としては16代目になりますが、私はリレーの一走者にすぎません。身の丈にあった経営で、江戸の良さを伝えていきたいですね。創業来500年という会社の歴史を見据え、“尊敬される会社”でありたいと思います。」と語る吉村社長。

「品質」「信頼」「信用」を守りつつ、新しい味にチャレンジして商品開発をするというのは大変な作業です。しかもこれだけ酵母が共通化され、米もトラック便で運べる現代でどこで差別化ができるというのでしょう。

まずは水。豊島屋酒造さんでは地下150mから富士山の雪解け水と言われる伏流水を組み上げて使っているということ。

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そして人。技術を伝え、情熱を傾けて作るということ。

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(左:豊島屋酒造(株)田中副社長、右:豊島屋本店 吉村社長)

なにが凄いって豊島屋酒造副社長の田中さん、ほとんど3時間しゃべりっぱなし、語りっぱなしです。しかもその内容の深いこと。歴史から作り方、業界の裏話まで多種多様。そのエネルギーに圧倒されました。

一方物静かな豊島屋本店社長の吉村さん。伝統と歴史を後世に伝えるためにツイッターをはじめたりと、新しいチャレンジをしています。礼儀正しい姿はTLにもあらわれていますね。アイコンはなんでもわざわざ写真館でとったとか。実は吉村さん、学生時代は物理学専攻で、就職後研究所でメモリを研究していたのだとか。意外ですが、そんな先進性がツイッターの使用に結びついているのかも知れません。

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400年を越えて今なおチャレンジする老舗の新製品は微発泡純米うすにごり生酒「綾」。お食事処で女性が一人で気軽に注文、飲めるようにとデザインされた180mlビンはどすこい系の日本酒とは思えないシンプル爽やかさ。おっとあのウジトモコさんがアートディレクションしているではないですか。さすがは素敵な仕上がりです。

この「綾」、微発泡ということでキャップボトルをあけるとジュビジュビしゅわーーーっとあふれ出てきます。キャップの開け閉め開け閉めを繰り返し、中の気が抜けたらようやく飲めるというのも一つの楽しみ。シャンパンのようにしゅわーーー、ドボドボドボと溢れださせるのも一興かも。

そう、シャンパンですよ。

豊島屋さんは老舗中の老舗ですが、日本酒というと日本と世界のごく一部の愛好家のものといったイメージ。ワイン(葡萄酒)が世界で飲まれていますが本来葡萄の持つ糖や皮がもっている苦味といったものが本来的に食事にあうのかというと疑問が残ります。米由来の日本酒のうまみ成分が食事と混ざりあうことで、美味しさのマリアージュが生まれるはず。ということはもっともっと世界で飲まれてもいいはず。

「綾」のような微発泡純米酒を「FUJIYAMA(富士山)」という名前で成田においてみるのはいかがでしょう。栓をあけた瞬間溢れだすのは、富士山のボルケーノ的爆発と溶岩をイメージしました、とかいって。色は雪をいただいた富士山の白に合っていますし。なんでもすでに羽田には「羽田」というお酒が置いてあり、東京土産でよく売れているそうです。

ということで色々な興味深いお話を聞きつつ、美味しい日本酒を試飲させてもらいました。最初二日酔いが怖くて恐る恐る飲んでいたのですが、気付けば結構な量をいただいた上にまったく二日酔いになりませんでした。おかげ様でWWDCの翻訳仕事がちゃんとできましたよ。

今回は貴重な機会をいただき、本当にありがとうございました。江戸時代は究極のサステナブル社会と仮説をたてているのですが、それを体現している豊島屋さんに興味津津。今後また日本酒にチャレンジできそうです。やはり人生チャレンジしていかないといけませんね。

【Twitter】

吉村俊之 (Toshi_Yoshimura) on Twitter
豊島屋本店 (toshimayahonten) on Twitter

【関連リンク】

豊島屋本店
豊島屋酒造
酒のさかな。

豊島屋酒造のブログです。新米蔵人の目線を通じて、日常や休日の雑多な風景を、デコボコな言葉と泳ぐ目線で綴ります。皆様の「酒のさかな。」としてご賞味下さい。

「視覚マーケティング実践講座」出版記念セミナーでナチスについて考えてみた ([の] のまのしわざ)

【おまけ】

大根男は今日もブンブン丸でした。

吉村さんが物静かにうなづく姿が印象的です。