パワースポットファンの皆様、お待たせしました。ようやく高千穂です。高千穂はその地域全体がパワースポットと呼んでいいほどの秘境。そして日本神話ゆかりの各神社も強烈なパワーを放つ特異点。そこを巡ってきたんだから、体が浄化されるのも当然というものです、なんてね。
パワースポットの効能はひとまずおいといて、今回ご紹介するのは天岩戸神社。あの天岩戸の物語の舞台となった場所です。
天岩戸神社・天安河原(高千穂町)天岩戸(あまのいわと)神社西宮
古事記・日本書紀及び伝承では、 日の神様「天照大神(あまてらすおおみかみ)」が弟君「須佐之男命(すさのおのみこと)」のいたずらにお怒りになり、「天岩戸」にお隠れになってしまわれます。 「天照大神」が岩屋戸(洞窟)に隠れられると天界・地上界は真っ暗闇となり、多くの疫病・災いが発生し沢山の悪霊が出て神々は大変困ってしまいます。 八百萬(やおよろず)の神々は集まって相談をし、岩屋戸の前に榊の木をたて勾玉や鏡を取付て、「天細女命(あまのうずめのみこと)」がみだらな格好をしておもしろおかしく踊ります。これを見た神々は大声で笑います。不思議に思った天照大神が顔を覗かせたところ、「手力男の命(たじからおのみこと)」が岩戸を押し開いて連れ出します。岩屋戸には注連縄を張って封印し、入り口を塞いでいた岩の戸を「手力男の命」が投げ飛ばします。漸く天界と地上界は元のように明るくなりました。この時投げられた岩戸は長野県戸隠に落ちた。と伝えられています。
天岩戸神社・天安河原(高千穂町)天岩戸神社は岩戸川の右岸(西岸)に立ち、深い渓谷を挟んで東岸の岸壁の中腹にあります。天岩戸の周辺は雑木で覆われ、黒い岩肌にぽっかりと空いている洞窟の様子を渓谷越しに拝観することができます。天岩戸を拝観できる場所は拝殿背後の拝観所からだけです。(天岩戸は写真撮影は出来ません)
天岩戸神社・天安河原(高千穂町)天岩戸神社には拝殿があるだけで本殿はありません。本殿は聖域「天岩屋戸」をご神体としているからだそうで、このような形式の神社は日本でも大変珍しいそうです。 宮司さんの話では「天岩戸」には誰も立ち入ったことが無く、入口は崖崩れで埋まっている様子とのことです。
神社の拝観ツアー(無料)に参加すると、見ることは可能です。ただかすかに亀裂らしいものが見えるだけで、心眼でみるしかなさそうです。写真はNGです。
さて、荘厳な天岩戸をみたあと、今回のツアーの超目玉だったのは神楽殿を前にして説明された、神武天皇の生い立ち。
記憶に頼ると、主旨はおおむねこんなかんじ。
神武天皇という呼び名は後世つけられたものですが、便宜上統一します。
(初代天皇)神武天皇とはもともと信仰とは山や海などの自然信仰。
それは海の幸、山の幸など天の恵みを与えるから。
それが神となった。
神武天皇は稲作を奨励、皇后は綿花を摘み衣服を作った。
大地の恵みをうけることから、神武天皇はきっと神様の子孫だろう言われた。
ということは神武天皇の祖先は神様であろうとなり、天皇は神様となった。
初代天皇以降、天皇は豊穣を祈る政(まつりごと)を行うのみになった。
もうですね、いかづちで打たれたようでしたよ。なるほど!色々な謎が一気に氷解です。
このブログでは常々米の歴史を持ち出してきていますが、それは日本人にとって米が特殊な農作物であるからです。そしてもうひとつ、日本人にとってなくてはならない存在が天皇。この天皇と米が完全につながった瞬間です。
日 本 会 議また、保田氏は神武東征について、 「高天原の神の国では、水田で米作りが行なわれていました。この高天原の米作りの高い技術を国中に普及させることが天照大神の教えであります。神武天皇のご東征は、この水田の技術を各地の人々に教えながら進まれた」と述べていますが、狩猟採集の不安定な生活から稲作による安定した生活を広められたのが天皇であられたのです。
日本人とお米 / 田んぼ学校その神話では、「ずっと遠い昔、天の上には神様の世界があり、そこに住む神様の子どもがこの国へ降(くだ)ってきた」と伝えられています。その子どもの名前はホノニニギノミコト。「ホ」というのは稲穂(いなほ)の「穂(ほ)」、「ニニギ」と言うのは「にぎやか」、つまり稲穂がたくさん実る神さまということです。そのニニギノミコトのおばあさんにあたる神さまは天照大神(あまてらすおおみかみ)という太陽の神様でした。天照大神は、ニニギノミコトが地上に降(くだ)るとき稲穂をあたえ、「これでみんなのお米を作りなさい」と教えてくれたのだそうです。
そしてもう一つ、それは棚田のこと。稲作がどうして山間の棚田で行われているのか不思議でならなかったのです。平地で水田を作った方が簡単そうですが、実は平地で大規模な水田を作るというのは古代ではなく近世以降のこと。
棚田 - Wikipedia日本の稲作の適地は、水はけが良く、水利が良い土地である。土地には元々傾斜があるが、傾斜が少な過ぎる土地、および排水しづらい土地は湿地となるため水田不適地となる。また、灌漑をする場合はある程度の傾斜が必要であり、傾斜が少ない河川下流域の沖積平野は、江戸時代以前は稲作をするのに不適当であった。すなわち、近世以前の稲作適地は、地形で言えば洪積台地や河岸段丘の上、平地の分類で言えば盆地や河岸中流域など傾斜がある土地となり、集団化した農民が灌漑設備をつくって棚田をつくるのが一般的である。
近世以降は灌漑技術が向上し、傾斜が少ない沖積平野でも、水路に水車を設けて灌漑や排水が出来るようになり、現在、穀倉地帯と呼ばれるような河川下流域の平野での稲作が広まった。
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前項の記述の通り、近世以前の田圃は全て棚田だったため、歴史的には「棚田」と「田んぼ」の違いはない。
その棚田のルーツがここ高千穂にあったわけです。神武天皇(またはその一族)は高千穂の近くの出身で、おそらくは稲作をしていたのでしょう。これは推測ですが、棚田による水田を考えだした(または誰かに教わった)のです。それを皆に教えるうちに尊敬と信奉を集め、また豊作により富も蓄えたと考えられます。
神武天皇神武天皇は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の3代目の子孫である。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向にやってきて、すぐに彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が生まれ、それから20年経って鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)が生まれ、それから20年経って神武天皇が生まれたと仮定すれば、神武天皇が20歳(日本書紀では45歳)で東征したとして60年間、皇祖は日向で過ごしていたことになる。これは考えられる最短であるから、現実問題としては、もっと長く、恐らく少なくとも80年くらいは過ごしていたのではないかと考えることができる。
もうひとつ注目したいのが、このフレーズ。
・神武天皇はきっと神様の子孫だろう言われた。
・ということは神武天皇の祖先は神様であろうとなり、天皇は神様となった。
基本的に祖先と子孫というのは一致するものですが、天岩戸神社の人の説明ではわざわざ別に言っていたのです。これは単に表現上の問題ではなく、重大な意味をもっていると考えます。
それは神の定義です。
天からの恵みを与えるもの、それが神です。神武天皇は米作により恵みを与えてくれた、だから神の子孫だと噂されたんですね。ということはその祖先は神だろうとなり、神の血統になりました。
もしこれが「神」ではなかったとしたら、です。日本神話の話は単なる神武天皇の祖先の民話となります。
神話がやたらに人間くさいのはどの神話でもありがちですが、日本神話もたくさんの民話をベースにしているという説もあり、このような経緯で神格化されたので民話も同時に神話化されたのでしょう。いかんせん2000年以上前の話でインターネットもありませんから誰も「ソースを出せ」なんていわない時代です。一旦話ができてしまえば、それは事実としてバスってしまったんでしょうね。今でいえばクチコミマーケティングです。
八百万の神といいますが、天の恵みをくれるものは八百万(=数え切れないほどいっぱい)あるのは当然です。日本において、神は天の恵みそのものを意味していたのです。
神武天皇のついての衝撃はこの神の定義だけではありません。
神武天皇が農学者であり、日本の気候風土にあった水田耕作を編み出した点です。その後の日本の歴史をみれば明白なように、日本は米文化の国です。その点からも国をデザインしたといっていいわけですから、この2つの意義においてまさに日本の神といっていいでしょう。
いやほんと、高千穂すごい、天皇すごいです。
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