日本車を語る上でアメ車を忘れてはいけない

日本車、いや車を語る上で忘れてはいけないのはアメ車です。ついついドイツ車ばかりに目がいきがちですが、車を初めて量産したのはフォードであり、生活の中に組み込んだという意味での功績は大きいです。

そんなアメ車を愛してやまない、アメ車ラブなエントリーをご紹介。

/day: 偏愛的アメ車論(ダッジ・キャリバー試乗記)

そして、私がアメ車について思うのは、以下だ。

アメリカでは、どんな人間も暮らせるように、あらゆることがコンビ二エントに設計されている。いわば、オートマチック社会といおうか。スーパーに行って買い物をしたり、住む家の前から通勤する会社までの生活圏で必要なことは、英語さえ理解できれば、さほど難儀することはなく遂行できるはずだ。

そんなターンキー社会(車のキーをひねるとエンジンがかかるように、超カンタン!という意味)に住む人々が乗る車なんだから、複雑怪奇なつくりだったり、エンスーな味わいなどというものを求めるのは間違いである。

いかに生活圏をラクチンに移動し、オンナコドモトシヨリが乗っても平穏無事に操作でき(差別ではない、比喩である)、週末には遠出したり、スーパーに買い出しに行ってもめげないユーティリティが提供できているかがミソなのだ。

加えて言えば、もっと大きなさじ加減としては、たとえば、厳しい取締に捕まらないように、あるいは、長距離を移動する際に疲労を軽減すべく、さほど速度を出さずとも快適に走るためのトルクが用意されていることとか、μ(ミュー)が日本の道路に比べて低く、整備状態も悪い路面をしんなりとこなすためのシャシー、というあたりはお約束だ。

最近ではハンドリングや乗り心地が、欧州車並に硬質化するアメ車ではあるが、それでももっと根っこの部分ではアメリカンなおもてなしが見え隠れし、それ自体は不変なのだ。

それは、「辛い人生、車に乗っているときくらいは、あんたが大統領。難しいこと考えないで、ラクに行こうよ」という機械からのメッセージだと、わたしは了解している。

アメ車は、大らかな愛と同義なのだ。

シボ加工プラスチックの射出成形がイマイチだの、コンパネがわずかに反っているだの(笑)、ボタンに節度がないだの、ピラー剛性が低いなど、どうでもいいことだ。

もっと奥底で、アメ車はあなたを愛している。それは、カタログに載らない「仕様」なのだから、壊れても優しい目で「もうバカなんだから(はあと)」と微笑むことができるワケだ。

これほどアメ車を的確に表現している文章は他に見当たりません。

そして日本車は、いや戦争に負けたニッポンはそんなアメリカにコンプレックスを抱き、アメ車をパクってアメリカで売りまくって成長してきたのです。排気量のばかでかさ以外は追いつき、追い越した昨今はドイツ車をパクっているわけですがw 世界一の車企業になったら一体どこをパクればいいんでしょうね。