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インターネット上の表現の自由と責任のありかた

日本では事件が起きると必ず誰かに責任をとらせようとする。
アメリカではその事件が何故起きたかを調べようとする。

というような記事をどこかで読んだ記憶があったのですが、それが蘇りました。

連載:インターネット事件簿

こうした名誉毀損の被害が実際に出ているのに、書き込みしている人間が特定できず、誰も責任を取らないというのは世間一般の考え方として納得できないのではないでしょうか。ボカンといきなり殴られて、しかしどこにも責任がないとうのはおかしい。IPアドレスが保存できないというのであれば、そんな巨大な掲示板を維持せずに、自分で管理できる範囲内におさめておけばいいのでは

ARTIFACTさんで見つけました。もはや私にとって重要なメディアです。

【この記事に関連するエントリー: society

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コメント (1)

以下「内田樹の研究室」から引用です。
”かつてトマス・サスは、市民が身に起きるあらゆるトラブルについて、その責任者を訴え、賠償請求をできるような社会では、市民の側に「トラブルを事前に回避するための社会的能力」を育てるという動機づけが失われることを指摘した。
逆説的なことだが、「つねに悪が罰され、正義が勝利する」社会において、市民たちは、目の前で犯罪が行われ、不正が横行しても、それに対して鈍感になる。”
”それは神が全能であり、すべての不正がただちに神によって罰される社会では、人間が 倫理的である必要がないのと同じことである。
「トラブルは必ず解決される」という信憑はアメリカの「病気」である。”
このあと、日本のアメリカ型社会へのシフトについて書かれるのですが。
日本人は地震・台風など「責任の追及のしようがない災害」に慣れていたのかと思いますが、掲示板の書込みまでは責任追及を放棄する気にはなれないと。

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